この倉矢や、衣笠などの働き振りをみんな見習え! 十分|鶴嘴《つるはし》に力を入れて!」特曹は、訓練所出の一群を指さした。「高取! もっとしッかり麻袋にドロをつめる!」
「特務曹長殿! この袋の鼠の喰った穴はどうするんでありますか。藁を丸めてつめて置きましょうか?」
「うむ、うむ、そうしろ。」
 口の曲った特務曹長は、同じ訓練所出の松下に、満足げに頷《うな》ずいて見せた。
 又、ほかのが、向うの方で、何か、ゴマすっていた。
 それを、聞きのがさなかった高取は、苦笑を繰りかえしていた。(見えすいている!)
 一時間十五分の後、命令された通りの巨大な防禦設備が出来上った。これなら、鬼でも来ろだ。
 兵士たちは、くた/\になって宿舎へかえった。ドロまみれの手も、鼻も、頸も洗えなかった。水がなかった。昼食喇叭が鳴り渡る。向うの蛋粉工場からも、呼応して鳴り渡る。
「支那ちゅうところは、まだ四月だのに、もう七月のような陽気だなあ。……ああ、弱った弱った、暑いし、腹はぺこぺこになりやがるし。……」
 飯盒にわけられた、つめたい飯をかきこんだ。
「どいつもこいつも、水筒が、みんなからっぽだな。――当番! おい、お湯はないんか? お湯はないんか?」
 炊事当番はシャツの上に胸掛前垂をあてゝ、テンテコまいをしていた。完全な炊事道具が揃っていない。
「お湯だよ! おい、お湯だよ!」
「お湯どころか、米を洗う水さえなくって困っとるんだ。」「チェッ! 飯がツマってのどを通らねえぞ、おいらをくたばらす気か。」
「くたばらすも、ヘッタくれもあったもんかい!」
「チャンコロは、お湯を売ってるね。薬罐一杯、イガズル――。」
 見て来た福井が話をした。
「イガズルって、なんぼだい?」
「そら、支那の一銭銅貨のようなやつ一ツさ、あれがイガズルだ。二厘五毛か、そこらだろう。」
「お湯を売る――けちくさい商売があるもんだなア。」
 訓練所出の、上品ぶりたい倉矢が仰山《ぎょうさん》げに笑った。
 高取は、一方の壁の傍で苦り切っていた。ボロ/\剥げて落ちるような壁だ。製麺工場の玉田が、何故そんな面をしているのか訊ねた。
「貴様、仕事がツライから癪に障っているんか? 虫食ったような顔をしやがって。」
「そんなこっちゃないよ。あいつらが、仕様がねえ奴等なんだ。あの、衣笠や松下などのゴマすり連中め。」と、高取は、むッつり云った。「あんな奴等が多いから、支那人は、マッ裸にひきむかれるどころか、肝臓のキモまで掴み取られるんだ。」
「あいつらか、うむ。……あいつらは、女の腐れみたいな野郎さ。」
「さんざん、工場主や、地主に搾られて居りながら、それでもなお、ペコ/\頭をさげて、尾を振らずにゃいられねえ奴隷だよ。あんな奴等は。」高取は、そばの、助平の西崎をもかえり見た。初物《はつもの》食いで、同一の女郎を二度と買った、ためしがないという男だ。
「あんな奴等が一番困りものなんだ。さんざん、ブルジョアから酷使され、搾られ、苦しめられる。それでも、憎むことも、反抗することも知らねえんだ。おべっかを使って、落ちこぼれをめぐんで貰おうと心がけている手あいだ。」
「それは、そやけど、ま、ま、ええやないか。あいつらのゴマすりは、今日に始まったこっちゃないやないか。」西崎は卑猥に笑った。
「西崎! 貴様も、あいつらの仲間に這入れ! それが似合ってら!」
 高取の腕からは、頑固な拳がとび出しそうになった。
「そやないよ、そやないよ。ここで、そんなに、おこらんかてええやないか。……そら、衣笠の面相を見ろ、ぬれマラのようやないか。そら、ほんまに、ぬれマラのようやないか。」
 西崎は、話のたがをはずしてしまった。むしゃむしゃと向うの入口の方で、こちらの話には気がつかず、鑵肉をつついている厚唇の衣笠は、本当に、ぬれマラという感じだった。玉田は笑った。西崎の助平は有名なものだった。おかしいヒョウキンな奴だ。
 彼は、支那へ来たからには、チャンピーの味をみたいと望んでいた。それは、来る前からの望みだった。作業中にも、纏足の前がみをたらした、褐色や紫の支那服を着た女が通ると、そッとそれをぬすみ見た。手や脚が、とてもきゃしゃ[#「きゃしゃ」に傍点]だった。
 工場の函詰の女工にも彼の心はひかれた。
 それは、美しくはなかった。ホコリと、煙と、燐に汚れていた。しかし、それは、日本人とは、どこかちがっていた。ちがった何ものかを持っていた。
 ちがったものが彼に刺戟となった。
「何かやってるぞ、おい、工場の奴が、何かやってるぞ。」
 飯を食って暫らく休んでいた。一人が、削った軸木を乾してある附近の騒ぎに目をとめた。工人が、思いきったいじめ方をされている。
「リンチだ、リンチだ!」
 内所《ないしょ》ごとのように柿本が声をひくめた
前へ 次へ
全62ページ中33ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
黒島 伝治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング