と泣き出した。……「宇吉ツぁん! よう来てくれたのう、宇吉ツぁん!……」
「中ン条のおばさんじゃないか?」ちょっと一等卒は上官をはゞかって当惑げな顔をした。が、やがて云った。
「お、お、お……」その女は、嬉しさと、感激がこみ上げてくるものゝように声をあげて泣いた。「……お前さんが来て呉れたんか。……お、お、お……これで私《わつ》ッしらも助かろうわい。お、お、お……」
 この感情は、露わに表現しないにしろ、迎えに出揃った居留民達のどの胸にも、浸潤しているところのものだった。
 兵士達が焚き火を始めた。その焔が、ぱッと燃え上った。柿本は、自分の膝に崩折れかゝったこの婦人の蒼ざめて、憔悴した、骨ばった顔を見た。やはり、同村の、見覚えのある、顔の輪郭だけは残っていた。このおばさんがどれだけ恐怖と、心労に、やつれきっているか。彼は昔の、村に於ける顔を思い起しながら考えた。この婦人は、彼からは、従姉の又、又の従姉にあたった。年は、おばさんと呼んでいゝだけ違っていた。村では、殆んど親戚のうちに這入らないような親戚だ。しかし、こゝでは、彼も、このおばさんに、近々しい肉親に対するようなケチくさい感情が湧いて来た。
 婦人の方では、彼を、もっと、それ以上に感じていた。
「どうじゃろう、私等は別条ないんだろうか?」と、女はきいた。
「大丈夫だ。俺等の師団が、一箇師団やって来るんだ。これこんなに弾薬も持たされとるし、(彼はずっしりした弾薬盒をゆすぶって見せた。)剣は、切れるように、刃がついとんだ。」
「お、お、お……」
 婦人はまた声をあげて、嬉しさとなつかしさをかくそうとせずに泣いた。
 兵士達には部署がきめられた。部隊は別れ別れになった。一部は、蛋粉《たんぷん》工場へ向けられた。一部は福隆火柴公司《フールンホサイコンス》へ向けられた。一部は正金銀行へ向けられた。
 銃をかつぎ、列伍を組んで、彼等はそれぞれ部隊長に指揮されながら、自分の部署へむかって行進した。
 多くの居留民達は、自分達の家とは反対の方向へ列をなして去って行く軍隊を、なつかしげに、いつまでも立って見送っていた。子供達は嬉しげに旗を振りながら、あとにつゞいた。
 だが、おとな[#「おとな」に傍点]の居留民達は、出兵請求の決議にかけずりまわり、一ツ一ツ印を集め、懇願書を出して、折角やってきて貰ったなつかしい兵士が、自分達のちっぽけな家とはかけ離れた、工場や銀行の守備に赴くのを、はたして、ペテンにひっかゝったように、憤《いきどお》ろしく、意外に感じなかっただろうか?

     一六

 三時間の後、工場は、堅固な土嚢塁と、鉄条網と、拒馬《きょば》によって、武装されてしまった。
 機関銃が据えつけられた。カーキ服が番をしている。
 黄色の軽はく[#「はく」に傍点]土は、ポカ/\と掘り起された。
 大陸のかくしゃく[#「かくしゃく」に傍点]たる太陽は、市街をも、人間をも、工場をも、すべてを高くから一目でじり/\睨みつけていた。細い、土ほこりが立つ。火事場の暑さだ。
 上衣を取った兵士の襦袢は、油汗が背に地図を画いた。土ほこりはその上に黄黒くたまった。じゃり/\する。
「のろくさと、営所に居るように油を取ってはいけない! これは正真正銘の戦時だぞ。」重藤中尉が六角になった眼をじろじろさしてまわった。「おい、そこで腰骨をのばして居るんは誰だッ!」
 一方で掘りかえされる黄土は、他の兵士達の手によって、麻袋《マアタイ》に、つめられる。
 兵士は顔を洗うひまもなかった。頑丈な、蟇《がま》のような靴をぬいで、むせる[#「むせる」に傍点]足を空気にあてるひまもなかった。部署につくと同時に作業は初まった。
 黄土にふくらんだ、麻袋は、工場の前へ、はこばれる。一ツ一ツ積み重ねられる。見るまに土嚢塁が出来上ってしまった。五分間の休憩もなかった。
 別の一隊は、どこからか徴発して来た丸太を打ちこんで、土嚢塁の外側へ、四重に鉄条網を張りめぐらした。
 街路には、もっと太い丸太を組み合して、拒馬を作った。鉄条網は、工場の周囲から、遠くの街路に添い、街路を横切ってのびて行く、S銀行には、丸い、瓦斯タンクのような歩哨の土嚢塁が築かれた。
 製粉工場も、福隆火柴公司も、土嚢塁と鉄条網と、武装した兵士によって護衛された。
 支配人の内川は、中隊長や、中隊附将校にお上手を使った。営々として作業をつゞける兵士たちの方にもやって来た。作業の邪魔をしながら、軍隊でなければならんと思っている、その意思を兵士達に伝えようと骨折った。
 次は、周囲の範囲を拡大した区域の守備工事だ。土嚢は作るそばから、塀のように、又、別の箇所へ積み重ねられる。いくら作っても足りない。警戒巡視に出る人員がきめられる。歩哨がきめられる。当番卒がきめられる。
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