炊事当番がきめられる。不寝番がきめられる。
「おやッ、俺の上衣を知らねえか?」
 柿本の組で作業していた上川が、猫のようにアカシヤの叉《また》にかけられた他人《ひと》の軍衣をひっくりかえして歩き出した。巡邏隊の一人として呼ばれた男だ。黄土のほこりに襦袢が、カーキ色に変ってしまっていた。アカシヤの枝から、アカシヤの枝を、汚れた汗と土の顔を上にむけて、やけくそにたずねだした。無い。兵士が揃うのを待っている引率の軍曹はさん/″\に毒づいた。
 上川は、一度しらべた他人の被服記号をもう一度、汚れた手でひねくった。
「誰れか俺れのやつを間違って着とるんじゃないんか。」ますますいらいらした。負け惜みを云う。
「どこにぬいだったんだい? ぼんやりすな。」
「どこちゅうことがあるかい。ここだい。」
「ボヤッとしとるからだ。今に生命までがかッぱらわれてしまうぞ。戦地にゃ物に代りはねえんだぞ。」
 つるはしを振るっている連中は、腰が痛くてたまらない。土は深くなれば深くなる程、掘るのは困難だった。中尉や、中隊長や、特曹が作業を見ッぱっている。麻袋につめる連中があとから追ッかける。
「どうしたんですか。何か紛失《なく》したんですか?」支配人が、騒ぎの方へ、ちょかちょかと馳せてきた。
「上衣が見ッからねえんですよ。多分、誰かゞ間違って着たんだ。俺の名前が書いてあるのに。」強《しい》て作ったような、意気地のない笑いを浮べた。中隊長は聞いて、聞かぬらしく苦々していた。
「チャンコロめ、かっぱらって行きやがったんじゃないんですかな。」と内川は云った。「さっき、このあたりで、ウロウロしていたじゃありませんか?」
 なるほどと、はッとした。
「ぼんやりすなよ。チャンコロに、来る早々から、軍衣をかッぱらわれたりして……そのざまはなんだ!」
「なか/\あいつらは、油断がならんですからな。」支配人は云ってきかすように愉快げに笑った。
 彼等は、到着した第一日から、支那人を殴る味を覚えてしまった。
 貧民窟から、二人の支那人が引っぱって来られると、上川は、それによって、焦慮と、憤怒と、冷かされた鬱憤を慰めるものゝように、拳を振りあげて支那人に躍りかゝった。あとから、ほかの兵士達も、つゞいて二人の乞食の上に、なだれかゝった。殴ったり、踏んだり、蹴ったり、日本語で毒づいたり。しかし、いくら、どんなことをやったって、上川の軍衣は発見されなかった。
 ここでも、早速、内地における軍隊生活と、同じ軍隊の生活は初められた。彼等の飯は彼等が炊《た》いた。部屋の掃除も、便所の掃除も、被服の手入れも、歩哨勤務も、警戒勤務も、すべて彼等がやった。初年兵と二年兵の区別は、いくらかすくなくなった。が、やはり存在した。兵卒と下士の区別、兵卒と将校の区別は、勿論厳として存在した。
「寝ろ、寝ろ! 寝るが勝ちだ。」
 マッチ工場の寄宿舎から、工人を他の一棟へ追いやって、そこの高梁《コウリャン》稈《かん》のアンペラに毛布を拡げ、背嚢か、携帯天幕の巻いたやつを枕にして、横たわった。実に、長いこと、彼等は、眠るということをせず、いろ/\さま/″\な作業を、記憶しきれない程やったもんだ。一週間も、もっと、それ以上も睡眠と忘却の時間を省いて労働と変転とを継続した気がした。十日間、いや、二十日間。
「ここは、たゞ、家屋の広い適当なやつがほかにない関係上、泊るだけだから、」当直士官は、誠《まこと》しやかな注意をした。「ここの、工場の支那人とは、あんまり接触してはいけない。殊に、マッチを箱に詰めるところや、職工の寄宿舎には、婦人もいるんだから、用事のないのに、そこへむやみに出入りしてはいけない。」
「はいッ!」
「それから、支那人の中には、よくない思想を抱いている奴があるかも知れない、それにも気を配って、大和魂を持っている吾々がそんな奴に赤化されては、勿論、いけない。そんなことがあっては日本軍人として面目がないぞ。」
「はいッ!」
 兵士達は、靴もぬがず、軍服もぬがず巻脚絆も解かず、たゞ、背嚢の枕に頭を落すと、そのまゝ深淵に引きずりこまれるように、執拗な睡眠の誘惑に打ちまかされてしまった。

     一七

 軍隊は、工場の寄宿舎の一と棟に泊まっただけだった。
 職工には、何等干渉しなかった!
 それは坂東少尉が注意した通りだった。
 隊長も、士官も、武士|気質《かたぎ》を持っていた。軍人が労資の対立にちょっかいを入れることを潔《いさぎよ》しとしなかった。
 それにも拘らず、軍隊が到着した、その日から、工人の怠業状態は、鞭を見せられた馬のように、もとの道へ引き戻されてしまった。
 監督と、把頭の威力は、以前に倍加した。
 下顎骨が腐蝕し、胴ぐるみの咳をする小山は、自分の背後に控えている強大な勢力を頼もしく意識した
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