は、小さくなって、うしろの方へ引きさがった。
「これゃ、どっちにしろ戦争だ!」彼は、帰りがけに、陳に囁いた。「だが、今夜こそ、俺れゃ、お前に感謝するぞ。これで、すっかり手柄を立てることが出来た……何んて、気しょくのいいこっだろう!」
「金のこたア、忘れやすまいねえ?」
陳は、興ざめて冷静だった。
「うむ、いゝいゝ、忘れるもんか。きっとむくいるよ。だが、どっちにしろ、これゃ戦争にならずにゃいないぞ……」そして、彼は考えた。「これは、南軍と日本軍との戦争じゃない。これは、日本とアメリカの戦争だ。」
一五
ここは、早晩、陥落するものときめられた。
いわゆる『粒々辛苦の末に開拓した経済的基礎』が、水泡に帰するだろう。家も、安楽椅子も、飾つきの卓も、蓄音機も、骨董や、金庫も、すべて、ナラズ者の南兵の掠奪に蹂躪《じゅうりん》されてしまうだろうと居留民たちは考えさせられた。残虐な共産系が南兵には多数まじっている。良民を串刺しにし、道々墓を発《あば》いているという流言が飛んだ。
停車場は、持てるだけ荷物をかゝえこんだ青島への避難者でごった返した。
七ツか八ツの少年が、自分の身体もその中に這入ってしまいそうな、大きい、トランクを持たされていた。妊娠の婦人は、その腹よりも、もっとふくらんだ二ツ折の柳行李《やなぎごうり》を、支那人のボーイに、一箇は肩にかつがし、一箇は片手に提げさして、肩で息を切らし乍《なが》らやって来た。箱や袋を山のように積み上げた、土豪劣紳の馬車は、あとからあとからつゞいて馳せつける。
物価は、社会の動きを、詳細に反映した。
彼等の動揺と、街の状態は物価によって、明らかに物語られた。十元に対して、金票十二円三十銭の相場を持続していた交通銀行と、中国銀行の大洋《タイヤン》紙幣が、がた落ちに落ちた。八円から、七円、五円になり、ついには、外国人は(日本人も含めて)支那紙幣を受取らなくなってしまった。張宗昌系の山東省銀行はつぶれた。拳銃、金、銀、金票、食料品、馬車、自動車賃は、どんどん昇《あが》った。一挺の拳銃を八百五十八円で売買したものさえある。高価な椅子や卓や鏡や、絹織物が、誰れからも、一顧も与えられなくなってしまった。
同時に、社会の動揺は、無数の労働者達の行動の上にも反映した。工場労働者も――男工も、女工も、――街頭の苦力も、三四万の乞食も、監督の鞭とピストルに恐れなくなった。銃と剣を持った巡警は、案山子《かゝし》だ。
工場主は、(どの工場でも)僅かに賃銀不払いの戦術を持続することによって、工人達をつなぎとめていた。それが、やっとだった。工人達は怠業状態に這入った。
便衣隊と前後して、共産党員が市内にもぐりこんだ。――という風説がやかましくなった。工人に武器を配附して暴動を企てゝいるといううわさが立った。
工場主が勝手にきめた規則も、命令も、テンデ問題にされなかった。
工人達には、こういう時こそ、彼等の偉力を発揮するのに、好都合な条件がひとりでに備わってくる。そう感じられた。
マッチ工場の工人達は、もう怺《こら》えられるだけ怺えた。辛抱が出来る範囲以上に辛抱した。
ある夕方、五人の代表者があげられた。給料の即時、全額支払を要求した。
王洪吉《ワンコウチ》もその代表者となった。頭の下げっぷりの悪い、ひねくれた于立嶺《ユイリソン》も代表者となった。王はお産をした妻からも、老母からも、その後、便りがなかった。
便りがないことは、なおさら彼を不安にした。
工人達は長いこと、馬鹿にせられ踏みつけられた。
幾人か、幾十人かが最も猛烈な黄燐の毒を受けて、下顎を腐らしてしまった。
七ツか八ツの幼年工は一年たらずのうちに軟らかい肉体を腐らしてしまった。
そして、給料だけで、おっぽり出された。
十元か八元で、売買人から買い取られた子供は、給料さえ取れなかった。
彼等は働いた。
働いて、親をも妻をもかつえさせなければならなかった。
彼等は、去勢された牡牛のように、鞭を恐れた。
だが、いつまでも鞭を恐れることは、永久に奴隷となることだ。
親の家を恋しがっていた少年工は、一文の給料も取らないまゝ、ある夜、暗に乗じて逃走した。永久に買い取られてしまった子供は、逃げて行く家も、何もなかった。寄宿舎の方で涙ぐんで淋しげに黙っていた。
王洪吉ら五人は、夕方、おずおずと、事務所へ這入った。
給料はどうでもこうでも取らなけゃならなかった。それは当然だ!
会計係の岩井と、社員の小山は「何だい!」と頭から拒絶した。彼等は、はげしい喰ってかゝりあいを演じた。支配人は、工人が給料に未練を残して、逃亡もしない。受取るまでは、諂《へつら》うように仕事に精を出す。――平生の見方をかえなかった。
支那人は、
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