て見るかね、と言葉をかけた。すると、
「タフト先生、タフト先生!」と、髪を長くのばした若い一人が繰りかえした。「お前さん達、タフト先生に用事があるんかね。」
「今夜、お伺いする約束がしてあるんだ。」
 山崎は、ためらい/\語をつゞけた。
「ふむ、む。おっつけ先生は二階からおりていらっしゃる時分だよ。」
「そうかね、それじゃ丁度いゝところへ来た訳だな。」
 彼は、うますぎる支那語の口が辷って、心にもない、反対のことを喋ってしまった。彼はタフトを知らなかった。タフトにこの場へやってこられるのは一番困ることだ。
 陳は、そこの支那人と並んで、腰かけに腰かけ、南京から何人くらい一緒にやって来たか、今夜はなお、あとから何人くらい来る見込みか、月給はいくら貰っているか、そんなことをたずねだした。
 山崎は、前門牌《チェンメンパイ》(煙草の名)を出してマッチをすった。――こいつが一本燃えつきてしまったら引きあげよう。彼は心できめた。前門牌が一本なくなるのは五分間だ。その間なら、タフトはまだやって来ない気が彼にはした。煙草一本を安全時間ときめる根拠は、全く迷信から来ていた。しかし、一度それをきめると、それを実行した。山崎はそんな人間だった。
 彼は、自分の煙草に火をつけると、口を切った前門牌の袋をそこに居る者達の前に出してすゝめたが、陳以外、誰も貰おうとする者がなかった。髪の長いさっきの男は、じっと、彼のつまさきから、頭の髪まで丹念に、ちびる程執拗に睨めながら、もう一度、タフト先生に、どんな用事かときゝ直した。
 山崎は、敵意を持たれていると感じながら、日本の出兵に及んでいた陳長財の話に耳を奪われているものゝように、吸いこんだ煙を、そこにはき出して話のつゞきをとった。いくら日本軍がやって来たって、今度の北伐軍の前には、牛車に向かうとうろう[#「とうろう」に傍点]だよ、と笑った。
「あの鬼は、どこへやって来たって、人を食わずにゃ帰らねえや。」いな[#「いな」に傍点]頭の若い奴が憎々しげに口を出した。
「いや、あの……(鬼がと云おうとしたが、流石に自分を鬼とは云えなかった)日本軍が強いのは、正服を着た軍隊に対した時だけだよ。平常服の俺等にゃ、いくら日本軍でも手が出せめえ。」と山崎は訊ねるようにつゞけた。誰れも疑わしげに同意しなかった。
 煙草はだん/\残り少なくなって来た。何気なげに、笑ったり喋ったりする一方、彼の耳は、しょっちゅう、廊下のタフトがやって来る靴音に向って、病的に働いた。支那人がばた/\歩いて来る音にも、彼は、とび上りそうだ。
「さあ、もう、引きあげよう。」五|分《ぶ》程になった煙草を、足のさきでもみ消しながら考えた。
 陳は、声をひそめて、蒋介石が、アメリカから二千万円貰ったことに、話を引っぱって行った。今度は、独逸人の軍事顧問ばかりで、日本人には、見学さえ許していないそうだが、本当か、アメリカは、北伐軍には、もっと金を出す腹じゃないか、二千万円は、貧乏たれの日本人ならともかく、アメリカにしちゃケチくさいじゃないか、など話しはじめた。
 暗い隅の方へよって行った三四人が、何か不審げに囁きだした。
 山崎は、自分が疑われているばかりでなく、正体を見破られた、と思った。彼は、もう陳が、話を打ち切るか、打ち切るか、と、一分間を十時間ほどに長く感じながら入口に行った。
 彼は暗い廊下の足音に耳を傾けた。遠く、二階から、梯子段をおりて来る靴の音がした。陳はまだ、可笑《おか》しげに、呵々と笑ったり、喋ったりしている。靴は、どうも、こっちへやってくるらしい。
 彼は、殆んど何も考えるひまもなしに、たゞ陳に何か云って、廊下へ出た。十秒間に、十五間ほどを、曲り角まで足が宙をとんでやってきた。そこで彼は立止った。陳は、出てくる気配がなかった。
 山崎は、支那人に追っかけられる。と、予期しつゝ、なお、しばらく、様子をうかゞった。陳は、親しげに、おかしそうに笑いながら、とうとう出て来た。つゞいて、支那人が、どや/\と崩れ出て来た。彼は、ハッとした。どっかで爆音が起った。
 五秒の後、それは、武器を積んだトラックが、校庭に着いたのだと知れた。
 焚火にあたっていた者どもや、部屋にいた連中が、車からおろされる武器をかつぎこんだ。
 陳と山崎は、暗い夜露のおりた芝生の上に立ってそれを見ていた。タフトらしい、せいの高い、鼻筋の通った、アメリカ人が支那語を使って何か指図をしていた。
 武器は大型のトラックに、一ぱい積込んできていた。
「おい、おい、張り番はもういゝ。大丈夫だ。お前らも来て手伝ってくれ。」
 ふと、鼻の高い男が、学生服の二人を見つけて声をかけた。
「はい。」
 咄嗟に、気軽く陳はとび出て行った。
 その恰好を、山崎はおかしく、くつ/\笑いながら、自分
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