ゴフゴとした支那服を見ると、そのポケットに、ピストルをしのばしている気がして、無気味だった。そして、誰かにすがりつき度いような、あこがれにも似た不安を感じた。
 中津は、この家のあっさりとして、華やかな、日本娘の着物や、四国|訛《なまり》のある日本語や、若々しい鶏の胸肉のように軟らかい、ふるいつきたくなる娘の肉体を、視覚で享楽しながら、一家の不安に同感し、心配げな顔をしたり、また、特別、力になってやるようなことを云ったりした。
 お仙は、中津が、朝飯を食い、昼飯を食い、晩飯を食い、夜おそくなるまでいて呉れるために、心細い財布をはたいて物惜みをしなかった。
 俊は無邪気だった。
 すゞは、ほかの第三者に対するように、こだわらない、馴れ/\しい態度で、中津に向おうとすると、気骨が折れた。何故か、顔が紅くほてった。中津が強盗、殺人、強姦などをやってきた、そして多くの人々から、恐るべき蝎として、嫌われ、おっかながられている。にもかゝわらず、実際は、滑稽な、おかしい、快活な微笑の持主であることは、以前と変らなかった。これは、すゞにとって、奇怪で、同時に快よかった。しかし、中津は、やって来ると、玄関に這入った瞬間から、帰えりに、観音開きの門を出て、なお、も一度、あとを振りかえるその時間まで、十二時間でも、十五時間でも、その間、一分間も、彼女の、顔や、頸や手から、微笑を含んだ、怖げな眼を離さなかった。それが、すゞには、窮屈で、息苦るしかった。
 その執拗な視線は、彼女が、用事をして、こちらからは、彼を見ていない時にも、やはり注がれていた。そのことを、彼女は感じた。
 ときどき、彼女は、どうかすると、中津の濃い毛だらけの頑丈な二本の腕が、うしろから無遠慮に自分を抱きしめて、首筋のあたりを、熊のようになめ[#「なめ」に傍点]やしないかと気にかかった。ぞッとした。
 兄がいないと、なお、この恐怖は強かった。母もいなくなると、恐怖と危険は、もっと、もっと身に迫るような気がした。
 すゞは、妹と、歩きかねる甥とを頼りにするような心持になった。小鳥のように、隅の方にうずくまっていた。
 幹太郎は、この一家を襲っている二つの恐怖を感じた。同時に、妹も母も、支那兵の乱暴に対する強迫観念のようなものは、戦慄するほど強いが、中津の恐ろしさは、女達が、殆んど意識していないと思った。殊に、それを気にとめ
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