男けがない。これも昼間はいなかった。これは、彼に、頗る好都合だった。暫らく、前線に出て、すゞを見なかったことは、彼の気持を枯淡にせしめるどころかむしろ、五十の情熱をかり立てるのだった。
 彼の、すゞに対する感情は、老人が、自分の孫にあたるような幼い娘を、老後の断ち切ることの出来ない欲情から愛《め》ずる。――そういう気持になるかと思うと、ええい、恋のへちまのと、上品ぶったまだるッこいことは面倒だ。いっそ、荒療治で、あっさりと無断で失敬して行っちまおうか? その方が面白れえや! と、この二ツの間を、乗合いみたいに往復した。彼は、このブラ/\する自分の感情を噛みしめるのが愉快だった。
 噛みしめて、そのさきをどうするか、それを空想するのが愉快だった。

 中津の、再度の訪問、これは、すゞにも、俊にも、それほど、恐怖を与えなかった。
 市街の、その行きつまったところには、河があった。古代より湧き出ている城内の泉からつゞいているその水は、音をたてなかった。丸腰の支那兵が、河馬の群れのように、その中へ頭を突ッこみ、濁している。
 街の一方は、青鼠の中山服の兵士たちが、蟻のように一面に這いまわっていた。他の一方には、土嚢塁の中でカーキ服が光っていた。シャモが蹴あいをやる、その前に、まず睨めッこをして相手のすきを伺う、それのようだった。何等奪われるものを持たない乞食や、浮浪漢は強かった。
 すゞも、俊も、お母も、自分達の家が、中山服の蟻と、乞食、浮浪漢の群れの中に、ポツンと一つだけ、存在しているのを知っていた。そして、それにおびえた。ほかは皆な支那人だ。
 山東軍は、退却際に、行きがけの駄賃として、数カ所で金品を奪い、むやみな発砲をした。中山服の眼には敵意があった。不安は、ます/\ひどくなった。
 馬賊上りの、つわものゝ、中津の来訪は、この不安と恐怖に、若干の、主観的な緩和剤となったのである。中津は、ピストルがうまい。睨みがきく。彼がいてくれることは、彼女達を心強くした。
 石を敷いた狭いゴミだらけの通りを、え[#「え」に傍点]体の知れない支那人が、犬のようにうさんくさく行ったり来たりする。猪川の家は、石の重い、壁の厚い、支那式の家でありながら、壁に切りあけた窓と、四国の田舎にありそうな、石の築《つ》き塀などによって、すぐ支那人の住家とは見分けがついた。すゞも、俊も、母も、長い、フ
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