、上川の軍衣は発見されなかった。
ここでも、早速、内地における軍隊生活と、同じ軍隊の生活は初められた。彼等の飯は彼等が炊《た》いた。部屋の掃除も、便所の掃除も、被服の手入れも、歩哨勤務も、警戒勤務も、すべて彼等がやった。初年兵と二年兵の区別は、いくらかすくなくなった。が、やはり存在した。兵卒と下士の区別、兵卒と将校の区別は、勿論厳として存在した。
「寝ろ、寝ろ! 寝るが勝ちだ。」
マッチ工場の寄宿舎から、工人を他の一棟へ追いやって、そこの高梁《コウリャン》稈《かん》のアンペラに毛布を拡げ、背嚢か、携帯天幕の巻いたやつを枕にして、横たわった。実に、長いこと、彼等は、眠るということをせず、いろ/\さま/″\な作業を、記憶しきれない程やったもんだ。一週間も、もっと、それ以上も睡眠と忘却の時間を省いて労働と変転とを継続した気がした。十日間、いや、二十日間。
「ここは、たゞ、家屋の広い適当なやつがほかにない関係上、泊るだけだから、」当直士官は、誠《まこと》しやかな注意をした。「ここの、工場の支那人とは、あんまり接触してはいけない。殊に、マッチを箱に詰めるところや、職工の寄宿舎には、婦人もいるんだから、用事のないのに、そこへむやみに出入りしてはいけない。」
「はいッ!」
「それから、支那人の中には、よくない思想を抱いている奴があるかも知れない、それにも気を配って、大和魂を持っている吾々がそんな奴に赤化されては、勿論、いけない。そんなことがあっては日本軍人として面目がないぞ。」
「はいッ!」
兵士達は、靴もぬがず、軍服もぬがず巻脚絆も解かず、たゞ、背嚢の枕に頭を落すと、そのまゝ深淵に引きずりこまれるように、執拗な睡眠の誘惑に打ちまかされてしまった。
一七
軍隊は、工場の寄宿舎の一と棟に泊まっただけだった。
職工には、何等干渉しなかった!
それは坂東少尉が注意した通りだった。
隊長も、士官も、武士|気質《かたぎ》を持っていた。軍人が労資の対立にちょっかいを入れることを潔《いさぎよ》しとしなかった。
それにも拘らず、軍隊が到着した、その日から、工人の怠業状態は、鞭を見せられた馬のように、もとの道へ引き戻されてしまった。
監督と、把頭の威力は、以前に倍加した。
下顎骨が腐蝕し、胴ぐるみの咳をする小山は、自分の背後に控えている強大な勢力を頼もしく意識した
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