わんだけでも、なんぼよけりゃ。ずっと、こっちの気持が落ちついて居れるがな。」
 村は、だん/\に変っていた。見通しのきく自作農の竹さんは、土地をすっかり売ッぱらって都会へ出た。地主の伊三郎も、山と畠の一部を売った。息子を農林学校へやる学資とするためだ。小作人から、自作農に成り上って行こうと、あがいている者も僕の親爺一人に止まらなかった。
 又、S町の近くに田を持っていたあの松茸番の卯太郎は、一方の分を製薬会社の敷地に売って五千円あまりの金を握った。
 こういう売買の仲介をやるのが、熊さんという男だ。三十二本の歯をすべて、一本も残さず金で巻いている。何か、一寸売買に口をかけると、必ず、五分の周旋料は、せしめずに置かない男だ。人々は、おじけて、なるべく熊さんの手にかけないようにする。熊さんを忌避する。が、熊さんは、売買ごとにかけると犬のような鼻を持っていた。どこから、どうして嗅ぎつけて来るのか、必ず、頭を突っこんで口をきいた。
 村へは電燈がついた。――電燈をつけることをすゝめに来たのも熊さんだった。
 がた/\の古馬車と、なたまめ煙管をくわえた老馭者は、乗合自動車と、ハイカラな運転手に取ってかわられた。
 自動車は、くさい瓦斯を路上に撒いた。そして、路傍に群がって珍らしげに見物している子供達をあとに、次のB村、H村へ走った。

      五

 十一月になった。
 ある夜、トシエは子を産んだ。兄は、妻の産室に這入った。が、赤ン坊の叫び声はなかった。分娩のすんだトシエは、細くなって、晴れやかに笑いながら、仰向《あおむけ》に横たわっていた。ボロ切れと、脱脂綿に包まれた子供は、軟かく、細い、黒い髪がはえて、無気味につめたくなっていた。全然、泣きも、叫びもしなかった。
「これですっかり、うるさいくびきからのがれちゃった。」
 トシエは悲しむかと思いの外、晴々とした顔をしていた。これは、まだ、兄の妻とならないさきの、野良で自由にはねまわり、自由に恋をした、その時の顔だ。妙に、はしゃいでいた。
 つゝましさも、兄に頼りきったところも、トシエの顔から消え去ってしまった。赤ン坊は死んでいたのだ。
 一カ月の後、彼女は、別の、色の生白い、ステッキを振り振り歩く手薄な男につれられて、優しく低く、何事かを囁きながら、S町への大通りを通っていた。
 虹吉も家を捨てた。

      六


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