を割って見せない農民の生活を十分、委曲をつくして表現し得ているとはいえない。
 ブルジョア文学になると、もっと農民を、ママ子扱いにしている。島崎藤村の「千曲川のスケッチ」その他に、部分的にちょい/\現れているのと、長塚節の、農民文学を論じる時にはだれにでも必ずひっぱりだされる唯一の「土」以外には、ほとんど見つからない。たまたま扱われているかと思うと、真山青果の「南小泉村」のように不潔で獣のような農民が軽薄な侮べつ的態度で、はな[#「はな」に傍点]をひっかけられている。その後のブルジョア文学は、一二の作品で農民を題材としていることがあっても、ほとんど大部分が主として、小ブルジョア層や、インテリゲンチャにチヤホヤして、農民をば、一寸、横目でにらんだだけで素通りしてしまった。それはブルジョア文学としては当然であるが、彼等が、一杯の麦飯にも困難する農民、そして彼等が常食とする米を作りだしている農民と、彼等の文学が何等の関係をも持たなかった。そして、彼等の文学は、手の白い、労働しない少数の者にさゝげられた文学であったことを、その小ブルジョア的作家態度と合わせて、はっきりと物語る以外の何ものでもな
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