向にまよいこんでしまう。ということを、佐左木俊郎を見る時、痛切に感じるのである。
――「成程今までの我々の農民文学は、日本農業の特殊性をさながらの姿で写しとった。それは、農林省の『本邦農業要覧』にあらわれた数字よりも、もっと正確に日本農民の生活を描きだしていた。けれども、それだけに止っていた。」とナップ三月号で池田寿夫はいっている。確に、それはその通り、それだけに止っていた[#「それだけに止っていた」に傍点]のである。農林省の「本邦農業要覧」よりは正確に農民の生活を描きだしてはいるだろう。けれども、決して、これまでの日本の農民生活を、十分にその特殊性において、さま/″\な姿で描き得ていると自負することは出来ない。凡《およそ》、事実は反対に近い。むしろ、払われた努力があまりにすくなかった。農民の生活は従来、文学に取りあげられた以上にもっと複雑であり、特殊性に富み、濃淡、さまざまな多様性と変化を持っている。あの精到を極めた写実的な「土」でさえ、四国地方に育った者や、九州地方に育った者が、自分の眼で見、肉体で感じた農村と、「土」の農村とを思いくらべて異っていることに気づく。「土」には極めて僅のことが精細に書かれているにすぎないことを感じるのである。日本人がロシア文学を読んで感じる遠さも、そこにある。これは、一つには地理的関係が原因しているのだろう。それだけ、我々が農民文学の諸問題をプロレタリアートの立場から解決するにあたって、困難さがより多くあるといわなければならない。それだけやりがい[#「がい」に傍点]もある。プロレタリア文学には、ブルジョア文学が、農民には、ほとんど眼も呉れずに素通りしてしまった、そういうことは絶対に許されないのである。
我々は過去の農民生活についても、十分な結びつきが決してなされていなかったし、体験や知識も豊富でなかった。殊に、現在の、深刻な農業恐慌の下で、負担のやり場を両肩におッかぶせられて餓死しないのがむしろ不思議な農民の生活、合法無産政党を以て労農提携の問題をごま[#「ごま」に傍点]化し去ろうとする社会民主主義者共の偽まん[#「まん」に傍点]を突破して真に階級性を持った提携に向って進んでいる貧農大衆の闘争等については、まだ全くわれ/\の文学に反映さしてはいない。
しかし、この問題の解決に、われわれは、現在の幾人かの作家が闘争の現実に馳け足
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