川が止りとなったところの年を三ツも四ツも通り越している者がたくさんあるだろう。
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文学のことは年齢によってのみはかることは出来ないが、しかし、文学がその作家の置かれた環境と切り離して考えられない関係がある限り、環境は時間によって変化するので年齢はその作家の人間にも、またその作家の作り出す文学にも変化を与えるのは否まれないように思われる。が、その素質によって、短い時間のうちに速かに完成してゆく者と、完成までには、長い時間を要し、さまざまな紆余曲折を経て行く者とがあるだろう。あるいは、いつまでも完成せずに終るたちもあるだろう。あっていい筈である。
短い期間のうちに珠玉のような完成をとげた者にとっては、その最後の時に、自ら自力で終止符を打ってしまうそのことにも意義があるだろう。いや、それが春月のように今までの世界が空白になって、それからさきが彩られて──最も意義あることなのかもしれない。
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昨年、私は一尺五寸ほどの桃の苗を植えた。それが今春花が咲き、いま青い実を結んでいる。桃栗何年とか云われるように桃は一体不思議なほど早く生長して早くなるものである。が、その樹齢はかなり短い。十年そこそこで、廃木となる。梅は実生からだと十年あまりかかって始めて花が咲き実を結びはじめる。が、樹齢は長い。古い大木となって、幹が朽ち苔が生えて枯れたように見えていても、春寒の時からまだまだ生きている姿を見せて花を咲かせる。
早生の節成胡瓜は、六七枚の葉が出る頃から結顆しはじめるが、ある程度実をならせると、まるでその使命をはたしてしまったかのように、さっさと凋落して行ってしまう。私は、若くて完成して、そして速かに世を去って行った何人かの作家たちと、この桃や胡瓜のことを思い合せて興味深く感じるのである。
こういう関係は、作家ばかりでなく他の仕事に従う者の上にもあるように思われる。
ところで私のように長い病気で久しく仕事をしないで生きているものはそれではその逆で自然が仕事が出来るまで長命さして呉れるだろうか、あるいはながいき出来そうな気もする。これまでの仕事には、まだ自分が三分くらいしか出せていなかった気もする。
が、本当のことは、生きてみなければなんとも云えない話である。
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さきの話ずきの女は、この春月の詩碑へたずねて遠くからちょいちょい人が来
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