安心!」一瞬間、こんなことを感じた。
彼は、たしかに神経衰弱にかゝっていた。寝床に横たわると、十年くらいの年月が、急に飛び去ってしまえばいゝ、というようなことを希った。何もかも忘れてしまいたかった。反物を盗んで来た妻のことが気にかゝって仕方がなかった。これまで完全だった妻に、疵《きず》がついたようで、それが心にわだかまって仕方がなかった。
彼は、現在、自分が正直ばかりでは生きて行かれないことを知っていた。彼は食うものを作りながら、誰れかに甘《うま》い汁を吸われているのだった。呉服屋も、その甘い汁を吸っている者の一人である。だから、こちらからも復讐してやっていゝのだ。彼は常にからそういう考えは持っていた。でも、彼は、妻が呉服屋に対して悪いことをすると、それにこだわらずにはいられなかった。
六
お里は、畑から帰るとあの反物が気にかゝるらしく、風呂敷包を開けて見た。
「あらッ!」彼女には風呂敷包に包んだ反物が動いているように思われた。「あの二反が無い!」
彼女は、そこらあたりに出ていないか見まわした。布団を入れる押入れや、棚や、箪笥の抽斗《ひきだし》を探してみた。けれ
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