うな気がする。
番頭は算盤をはじき直している。彼は受領書に印を捺して持って来る。
「何と何です?」
不意に、内儀の癇高い声がひびく。彼女は受領書と風呂敷包を見っぱっている。
番頭は不意打ちを喰ってぼんやり立っている。
「何にも取っとりゃしませんぞな! 何にも……」
お里が俯向《うつむ》いて、困惑しながらこう云っている……
五
清吉は胸がドキリとした。
「何でもない。下らないこった! 神経衰弱だ何でもありゃしない!」
彼はすぐ自分の想像を取消そうとした。けれども、今の想像はなんだか彼の脳裏にこびりついてきた。
やがて、門の方で、ぱきぱきした下駄の音がした。
「帰ったな。」と清吉は考えた。
彼は一刻も早く妻の顔を見たかった。彼女の顔色によって、丸文字屋でどんなことが起ったか分るからだった。さきの想像が真実かも知れないと云う懸念に彼はおびやかされた。
彼女は何か事があると、表情を失って、顔の皮膚が厚く凝り固まったように見えるのであった。眼は真直に前をみつめて、左右のことには気づかない調子になる。
「もう這入って来そうな時分だ。」
妻が座敷へ上って来るのがお
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