自伝
黒島傳治
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【テキスト中に現れる記号について】
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ガミ/\
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明治三十一年十二月十二日、香川県小豆郡苗羽村に生れた。父を兼吉、母をキクという。今なお健在している。家は、半農半漁で生活をたてゝいた。祖父は、江戸通いの船乗りであった。幼時、主として祖母に育てられた。祖母に方々へつれて行って貰った。晩にねる時には、いつも祖母の「昔話」「おとぎばなし」をきゝながら、いつのまにかねむってしまった。生れた時は、もう祖父はなかったが、祖母は、祖父の話をよくした。「おとぎばなし」は、えゝかげんに作ったものばかりだったらしい。三ツ四ツそれをまだ覚えている。
八歳か九歳の時から鰯網の手伝いに行った。それを僕等の方では「沖へ行く」と云う。子供が学校が引けると小舟に乗りこんでやって行って、「マイラセ」という小籠に一っぱいか半ばい位いの鰯を貰って来るのだ。網元を「ムラギミ」と云って、そこの親爺の、嘉平と利吉という二人が、ガミ/\子供を叱りつけた。僕等は、子供の時から、その嘉平と利吉に、「クソノカス」にどなられて育った。後年、網元の嘉平と利吉は、落ちぶれて死んじゃったが、その時は気持がよくって胸がすっとした。
鰯網が出ない時には、牛飼いをやった。又牛の草を苅りに出た。が、なか/\草は苅らずに、遊んだり角力を取ったりした。コロ/\と遊ぶんが好きで、見つけられては母におこられた。祖母が代りに草苅りをしてくれたりした。
十五六になった頃、鰯網は、五六カ月働いて、やっと三四十円しか取れなかったので、父はそれをやめて、醤油屋の労働をすることになった。僕は、鰯網の「アミヒキ」もやった。それから、醤油屋の「ゴンゾ」にもなった。十九の秋だったか、二十の秋だったか東京へ来た。そこで、三河島にあった建物会社というところへ這入って働いた。ヤマカン会社で、地方のなにも知らん慾ばりの爺さんどもを、一カ年五割の配当をすると釣って金を出させ、そいつをかき集めて、使いこんで行くというやり方だった。ジメ/\した田の上に家を建てゝ、そいつを貸したり、荷馬車屋の親方のようなことをやったり、製材所をこしらえたりやっていた。はじめのうちは金が、──地方の慾ばり屋がどんどん送ってよこすので──豊富で給料も十八円ずつくれたが、そのうち十七円に
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