国境
黒島伝治
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)距《へだ》てる
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1−92−56]
×:伏せ字
(例)×××がいた。
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一
ブラゴウエシチェンスクと黒河を距《へだ》てる黒竜江は、海ばかり眺めて、育った日本人には馬関と門司の間の海峡を見るような感じがした。二ツの市街が岸のはなで睨み合って対峙《たいじ》している。
河は、海峡よりはもっと広いひろがりをもって海のように豊潤に、悠々《ゆうゆう》と国境を流れている。
対岸には、搾取《さくしゅ》のない生産と、新しい社会主義社会の建設と、労働者が、自分たちのための労働を、行いうる地球上たった一つのプロレタリアートの国があった。赤い布で髪をしばった若い女が、男のような活溌な足どりで歩いている。ポチカレオへ赤い貨車が動く。河のこちらは、支那領だ。
黒竜江は、どこまでも海のような豊潤さと、悠々さをたたえて、遠く、ザバイガル州と呼倫湖から、シベリアと支那との、国境をうねうねとうねり二千里に渡って流れていた。
十一月の初めだった。氷塊が流れ初めた。河面一面にせり合い、押し合い氷塊は、一度に放りこまれた塵芥《じんかい》のように、うようよと流れて行った。ある日、それが、ぴたりと動かなくなった。冬籠もりをした汽船は、水上にぬぎ忘れられた片足の下駄のように、氷に張り閉されてしまった。
舷側の水かきは、泥濘《でいねい》に踏みこんで、二進《にっち》も三進《さっち》も行かなくなった五光のようだった。つい、四五日前まで船に乗って渡っていた、その河の上を、二頭立の馬に引かれた馬車が、勢いよくがらがらと車輪を鳴らして走りだした。防寒服を着た支那人が通る。
サヴエート同盟の市街、ブラゴウエシチェンスクと、支那の市街黒河とを距てる「海峡」は、その日から埋められた。黒橇《くろそり》や、荷馬車や、徒歩の労働者が、きゅうに檻《おり》から放たれた家畜のように、自由に嬉々として、氷上を辷《すべ》り、頻《ひん》ぱんに対岸から対岸へ往き来した。
「今日《こんにち》は! タワーリシチ! 演説を傍聴さしてもらうぞ」
支那人、朝鮮人たち、労働者が、サヴエート同盟の土を踏むことをなつかしがりながら、大きな露西亜《ロシア》式の防寒靴をはいて街の倶楽部《クラブ》へ押しかけて行った。
十一月七日、一月二十一日には、労働者たちは、河を渡ってやって行く。三月八日には女たちがやって行く。
「僕、日本人、行ってもいいですか?」
「よろしい」
その日本人は、二十歳を過ぎたばかりだった。モスクワへ行きたい希望を抑《おさ》えることができなかった。黒河に住んで一年になる。いつか、ブラゴウエシチェンスクにも、顔見知りが多くなっていた。
黒竜江にはところどころ結氷を破って、底から上ってくる河水を溜《た》め、荷馬車を引く、咽頭《のど》が乾いた馬に水をのませるのを商売とする支那人が現れた。いくら渇《かわき》を覚えても、氷塊を破って馬に喰わせるわけには行かない。支那人は一回、銅片一文を取って馬に水を飲ませるのだ。水が凍らないように、長い棒でしょっちゅう水面をばしゃばしゃかきまぜ、叩いていた。白鬚《しらひげ》まじりの鬚に氷柱をさがらした老人だった。
税関吏と、国境警戒兵は、そのころになると、毎年、一番骨が折れた。一番油断がならなかった。黒河からやってくる者たちは、何物も持たず、何物をも求めず、ただプロレタリアートの国の集団農場や、突撃隊の活動や、青年労働者のデモを見たいがためにやってくる。そういう風に見える。しかし、なかには、大褂児の下に絹の靴下を、二三十足もかくしていた。帽子の下に天子印の、四五間さきの空気をくんくんさせる高価な化粧品をしのばせていた。そして、彼らが市街のいずれかへ消えて行って、今夜ひっかえしてくる時には、靴下や化粧品のかわりに、ルーブル紙幣を、衣服の下にかくしている。そんな奴があった。
二
北方の国境の冬は、夜が来るのが早かった。
にょきにょきと屋根が尖《とが》った、ブラゴウエシチェンスクの市街は、三時半にもう、デモンストレーションのような電灯の光芒《こうぼう》に包まれていた。
郊外には闇が迫ってきた。
厚さ三尺ないし八尺、黒竜江の氷は、なおその上に厚さを加えようとして、ワチワチ音を立て、底から表面へ瘤《こぶ》のようにもれ上ってきた。警戒兵は、番小屋の中で、どこから聞えてくるともない、無慈悲《むじひ》な寒冷の音を聞いた。
二重硝子の窓の外には、きつきつたる肌ざわりの荒い岩のような、黒竜江の結氷が星空の下に光っていた。
番小屋は、舟着場から、約一露里(約九丁)上流にあって建てられていた。夏は、対岸から、踵《かかと》の高い女の白靴や、桜色に光沢を放っている、すき通るような薄い絹の靴下や、竹の骨を割った日傘が、舟で内密で持ちこまれてくる。ここは、流れが最も緩慢であった。そして、対岸の河岸が、三十メートル突きだして、ゆるく曲線を描いている関係から、舟は、流れの中へ放りだせば、ひとりでに流れに押されて、こちらの河岸へ吸いつけられるようにやってくる。地理的関係がめぐまれていた。支那人は、警戒兵が寝静まったころを見はからって、その自然を利用した。
かつては、この地点から、多くの酒精が、持ちこまれてきた。ウオッカの製造が禁じられていた、時代である。支那人は、錻力《ブリキ》で特別に作らせた、コルセット様の、ぴったりと人間の胴体に合う中が空洞となった容器に、酒精を満し、身肌につけて、上から服を着、何食わぬ顔で河岸からあがってきた。酒精に水をまぜて、火酒として売りつけた。資本主義時代から、飲んだくれることが労働者的であるように思いこんでいるルンペンを酒に酔わしてしまった。酒のために、困難な闘争を忘れさせた。そして、ゼーヤから掘りだしてきた砂金を代りにポケットへしのばして、また、河を渡り、国外へ持ち去った。
今は酒は珍らしくはない。国内で作られている。
今は、五カ年計劃の実行に忙がしかった。能率増進に、職場と職場が競争した。贅沢品《ぜいたくひん》や、化粧品をこしらえているひまはなかった。そんなものをかえりみているどころではなかった。
寒気が裂けるように、みしみし軋《きし》る音がした。
ペーチカへ、白樺の薪《まき》を放りこんだワーシカは、窓の傍によって聴き耳を立てた。二重硝子を透して遠くに、対岸の黒河の屋根が重い支那家屋の家なみが、黒く見えた。すべてがかたまりついた雪と氷ばかりだ。部分部分が白く、きらきらと光っていた。
また、きしきしという軋りが聞えて、氷上蹄鉄《ひょうじょうていてつ》を打ちつけられた馬が、氷を蹴る音がした。
「来ているぞ。また、来ているぞ」
ワーシカは、二重硝子の窓に眼をよりつけるようにして、外をうかがった。「偉大なる転換の一年」を読んでいたシーシコフは、頭を上げて、スヰッチをひねった。電灯が消えた。番小屋は真暗になった。と、その反対に、外界の寒気と氷の夜の風景が、はっきりと窓に映ってきた。
河を乗り起してやってくる馬橇が見えた。警戒兵としての経験からくるある直感で、ワーシカは、すぐ、労働組合の労働者ではなく、密輸入者の橇であると神経に感じた。銃をとると、彼は扉を押して、戸外へ躍《おど》りでた。扉が開いたその瞬間に、刺すような寒気が、小屋の中へ突き入ってきた。シーシコフもつづいて立ちあがった。
「止れ! 誰れだ?」
支那人は、抑圧《よくあつ》せられ、駆逐《くちく》せられてなお、余喘《よぜん》を保っている資本主義的分子や、富農や意識の高まらない女たちをめがけて、贅沢品を持ちこんでくるのだ。一足の絹の靴下に五ルーブルから、八ルーブルの金を取って帰って行く。そして国境外では、サヴエート同盟に物資が欠乏していると、でたらめを飛ばした。
一方では、飲酒反対、宗教反対のピオニールのデモを見習った対岸の黒河の支那の少年たちが、同様のデモをやったりするのに、他方どうしても、こちらの、すきを伺っては、穀物のぬすみ喰いにたかってくる雀のように、密輸入と、ルーブル紙幣の密輸出を企《くわだ》てる支那人があるのを、ワーシカはいまいましく思った。
「止れ! 誰れだ!」
防寒帽で、すっかり、耳から鼻までかくしてしまった橇の上の男は、声で警戒兵が出てきたことを知るより先に、眼で危険を見て取った。
「止れ! 止らなけゃ打つぞ!」
ワーシカは氷を踏んで進んだ。シーシコフは彼につづいていた。彼らと橇の距離はもう六七間になった。一人が馭者台で鞭を持ち、二人が、その後に坐っていた。馬は二頭だ。橇はちょっと止ったように見えた。と、馭者台から舌打ちがして、馬はくるりと反対にまわってしまった。鞭が、はげしく馬の尻をしばく音がした。
「逃げるな!」
ワーシカは、すぐ折敷をして、銃をかまえた。命令をきかず、逃げだす奴は打ってもいいことになっているのだ。
何か、橇の上から支那語の罵《ののし》る声がきこえた。ワーシカは引鉄を引いた。手ごたえがあった。ウーンと唸る声がした。同時に橇は、飛ぶような速力を出した。つづいて、シーシコフが発射した。
銃の響きは、凍った闇に吸いこまれるように消えて行った。
「畜生! 逃がしちゃった!」
三
戸外で蒙古《もうこ》馬が嘶《いなな》いた。
馭者の呉はなだめるような声をかけて馬を止めた。
ぶるぶる身慄いして、馬は、背の馬具を揺すぶった。今さっき出かけたばかりの橇《そり》がひっかえしてきたらしい。
外から頼むように扉を叩く。ボーイが飛んで行った。鍵をはずした。
きゅうにドカドカと騒がしい音がして、二人の支那人が支那服を着た田川を両方から助け肩にすがらしてはいってきた。
「大人、露西亜《ロシア》人にやられただ」
支那人の呉清輝は、部屋の入口の天鵞絨《びろうど》のカーテンのかげから罪を犯した常習犯のように下卑《げび》た顔を深沢にむけてのぞかした。深沢は、二人の支那人の肩のあいだにぶらさがって顔をしかめている田川を睨《にら》めつけた。
「何、貴様が、ボンヤリしているんだ! 今どき夏じゃあるまいし、警戒兵の網にひっかかるなんて、わざわざ小屋のある方を選って馬の頭をむけて行ったんだろう?」
「このごろ、大人、川凍ったばかりで道がない。まるで、山の岩のよう。夜、なお行きにくい」
「嘘言え、横着をしてもっと上流の方を廻らんからだ」
「大人、行ったことがない。どんなにあぶないか、どんなに行きにくいか知らない。何もしない者、何も知らない」
危険をくぐってやる仕事にかけては、俺の方がうわ手だ。ということを言いたげに呉は、安楽椅子に、ポンと落ちこんでチューインガムをしがんでいる深沢をチラと見て、にたにたと笑った。
「そうだ。何もしない者、何も知らないそうだ」
田川は唸く声の間から、とぎれとぎれに繰りかえした。弾丸のあたった腰は、火がついたように疼《うず》きほてついていた。
「チッ! しようがないね。貴様ら、呉と郭と二人で、それじゃ夜明に出かけろ、今度はうまくやらないと荷物を没収されちゃ、怺《こら》えせんぞ!」
「ああで」
荷物を積んだ橇は、門から厩《うまや》の脇にひっぱりこまれた。橇の毛布には、田川の血が落ちて、凍りついていた。支那人はボール箱の荷物をおろすと、脂ぎった手で無神経にその毛布をめくり上げた。相変らず、おかしげににやにや独《ひと》りで笑っていた。
「イーイーイイイ!」という掛声とともに、別の橇が勢いよく駈けこんできた。手綱が引かれて馬が止ると同時に防寒帽子の毛を霜だらけにした若いずんぐりした支那人がとびおりた。ひと仕事すまして帰ってきたのだ。
「どうしたい?」
毛布を丸めている呉清輝にきいた。
「田川がうたれただよ」と呉は朗らかに笑った。「時にゃうたれ
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