ることもあろうでか。これがおもしれえんだ」
「俺れら、こら、これだけやってきたぞ」
 若い男は、一と握りの紙幣束を紙屑のようにポケットから掴みだしてみせた。そして、また、ルーブル相場がさがってきたと話した。
「さがれゃ、さがって、こちとらは、物を高く売りつけりゃええだ。なに、かまうこっちゃねえだ」

 呉清輝は、実際、かげにかくれてこそこそと、あぶない仕事をやるために産れてきたような男だった。してはならぬ、ということがある。呉は、そのしてはならぬことを、かげにかくれて反対にやってみせる、それに快よさを覚えるようなたちの男だ。掏摸《すり》が一度、豪勢な身なりをしている男の懐中物をくすねて鼻をあかしてやると、その快味が忘れられず、何回もそれを繰りかえし、かっぱらう。そして、そのことのおもしろ味を享楽する。彼は、ちょうど、その掏摸根性のような根性を持っていた。
 密輸入商人の深沢洋行には、また、呉清輝のごとき人間がぜひ必要なのであった。
 深沢は、シベリアを植民地のように思って、利権を漁《あさ》って歩いた男だ。
 ルーブル紙幣は、サヴエート同盟の法律によって国外持出しを禁じられていた。そこでまた、国外から国内へ持ちこむこともできなかった。旅行者は、国境で円をルーブルに交換して行く、そして国外へ出る時には、ルーブルを円に交換してもらう。それは、一ルーブルが一円四銭の割合で交換された。ところが、ある時、深沢は、一ルーブル二十一銭で引きとった多くの紙幣を、国外から国内へ持ちこんで行った。そして、出てくる時、一円四銭で換えてもらって、ほくほくと逃げてきた。いっぱい喰わされたのはサヴエート同盟だった。彼は、昔から、こんな手段を使っていた。日本が出兵していたころ、御用商人に早変りして、内地なら三円の石油を一と鑵十二円で売りつけた。一ちょうの豆腐を十五銭に勘定した。ロシア人の馬車を使って、五割の頭をはねた。女郎屋のおやじになった。森林の利権を買って、それをまた会社へ鞘《さや》を取って売りつけた。日本軍が撤退《てったい》すると、サヴエート同盟の経済力は、シベリアにおいても復旧した。社会主義的建設が行われだした。シベリアで金儲けをしようとする人間は駆逐《くちく》された。それでも深沢は、どこまでもシベリアに喰いさがろうとした、黒竜江のこちら側へ渡った。火酒の密輸入をやった。火酒がだめになると、今度は贅沢品でサヴエート同盟の資本主義的分子を釣った。
 さまざまな化粧品や、真珠のはまった金の耳輪や、蝶形のピンや、絹の靴下や、エナメル塗った踵《かかと》の高い靴や、――そういう嵩《かさ》ばらずに金目になる品々が、哈爾賓《ハルピン》から河航汽船に積まれて、松花江を下り、ラホスースから、今度は黒竜江を遡って黒河へ運ばれてきた。それらの品々は、一時、深沢洋行の倉庫の中で休息した。それからおもむろに、支那人の手によって、国境をくぐりぬけ、サヴエート国内へもぐりこんで行った。
 これは二重の意義を持っていた。密輸入につきものの暴利をむさぼるだけではなかった。
 肉色に透き通るような柔らかい絹の靴下やエナメルを塗った高い女の靴の踵は、ブルジョア時代の客間と、頽廃的《たいはいてき》なダンスと、寝醒めの悪い悪夢を呼び戻す。花から取った香水や、肌色のスメツ白粉や、小指のさきほどの大きさが六ルーブルに価する紅は、集団農場の組織や、労働者の学校や、突撃隊の活動などとは、およそ相反するものだ。それをわざわざ持ちこんで行くのは意味がなければならなかった。社会主義的社会の建設に恐怖しているブルジョア国家の手がそこに動いていた。警戒兵たちがいまいましがっている支那人の背後には、×××がいた。
 商品とかえられて持ちだされてきいたルーブル紙幣は、十二銭内外で、サヴエート国内でただ一カ所密売買をやっている、浦潮《ウラジオ》の朝鮮銀行へ吸収されて行った。
 鮮銀はさらに、カムチャッカ漁場の利権を買ってる漁業会社へ、一ルーブル十八銭――二十銭で売りつけた。
 そこで、漁業会社は、普通相場の五分の一にあたる安いルーブル紙幣を借区料としてサヴエート同盟へ納《おさ》めるのだった。そして、ぬくらんと懐を肥やして、威張っていた。
 密輸入者の背後には、その商品を提供する哈爾賓《ハルピン》のブルジョアが控えているばかりではなかった。資本主義××が控えていた。
 どうすれば、こういう側面からのサヴエート攻撃の根を断つことができるか!
 呉清輝は、警戒兵も居眠りを始める夜明け前の一と時を見計って郭進才と橇を引きだした。橇は、踏みつけられた雪に滑桁を軋らして、出かけて行った。
 風も眠っていた。寒気はいっそうひどかった。鼻孔に吸いこまれる凍った空気は、寒いという感覚を通り越して痛かった。
 十五分ばかりして、橇はひっかえしてきた。
 呉は、左の腕を捩《ね》じ曲げるように、顎の下に、も一方の手で抱き上げ、額にいっぱい小皺《こじわ》をよせてはいってきた。
「早や行ってきたのかい?」
 腰の傷の疼痛《とうつう》で眠れない田川は、水を飲ましてもらいたいと思いながら声をかけた。
「火酒は残っていねえか? チッ! 俺れもやられた!」
「やっぱし、あしこのところからはいろうとしたのか?」
「いや、ずっと上へ廻ったんだ。ところがそこにも警戒兵がいた」
「どこにだって警戒兵はいるさ。番をするのはあたりまえだ」
「ふーむ、ふーむ、みごとにうたれちゃった」
 呉清輝はうたれたのが愉快だというような声を出した。
 火酒は、戸棚の隅に残っていた、呉は、それを傷口に流しかけた。酒精分が傷にしみた。すると、呉は、歯を喰いしばって、イイイッと頸を左右に慄《ふる》わした。
「何て、縁儀《えんぎ》の悪いこっちゃ、一と晩に二人も怪我をしやがって! 貴様ら、横着をして兵タイのいるいい道を選って行っとるんだろう。この荷物は急ぐんだぞ。これ、こんな催促《さいそく》の手紙が来とるんだぞ!」
 朝、深沢洋行のおやじは、ねむげな眼に眼糞をつけて支那人部屋にはいってきた。呉清輝と田川とは、傷の痛さに唸りながら、半ば、うつらうつらしつつ寝台に横たわっていた。おやじは、いきなり、ペーチカの横の水汲みの石油鑵を蹴《け》とばした。
「この荷物は急ぐんだぞ。これ、こんな催促の手紙が来とるんだぞ!」
 クヅネツォフからの暗号の手紙を田川の頭のさきで振りまわした。それには、アルファベットとアラビア数字がきれぎれに、一字一字、全部で三十字ほど折れ釘のように並んでいた。クヅネツォフは、対岸の、北の村に住んでいる富農だ。パン粉を買い占めたり、チーズを買い占めたり、そして、それを労働者に高くで売りつける。そんなことを常習のようにやっている男だ。みんなに毛ぎらいされていた。
「へへ、自分で持って行くがええや」
 おやじが去ったあとで、呉清輝は呟いた。
 田川は、これまで生きてきた日本の生活よりも、また、北満の河の北方側の生活よりも、河のかなたの生活の方がはるかにいいと心から思うことがたびたびあった。理屈ではなかった。街を歩いていると彼と同年くらいのロシアの青年たちの暗い影がちっともない顔を見てそう思うのだ。大またに、のしのしとまったく心配なげな歩きッぷりで歩いている。それを見てそう思うのだ。あの顔と較べて、いつも、じろじろ気を配って歩かなければならない罪人のような俺の境遇はどうだ!
 彼れらは、銭を持っていることがいらない。仕事を失う心配がない。食うものも着るものも必要なだけ購買組合からあてがわれる。俺らは、ただ金を取るために、危いことだって、気にむかないことだって、何だってやっている。内地でだってそうだ。満州でだってそうだ。ところが、彼れらは、金を取るためではなく、自分たちの生活を築きあげるために働いている。他人のために働いているんではなく、自分のために働いているんだ!
 むつまじげに労働学生が本をかかえて歩いている。それだけが、もう、彼をすばらしく引きつけるのだった。
 夜になると、怪我をしない郭と、若いボーイが扉のかげで立話をした。倉庫の鍵を外套から氷の上へガチャッと落した。やがて、橇に積んだボール紙の箱を乾草で蔽《おお》いかくし、馬に鞭打って河のかなたへ出かけて行った。
「あいつ、とうとう行っちゃったぞ!」
 呉清輝は、田川の耳もとへよってきて囁いた。
「どうしてそれが分るかい!」
「どうしても、こうしてもねえ。あいつだってばかじゃねえからな」
 呉清輝は、腹からおかしく、快よいもののようにヒヒヒと笑った。
 翌朝、おやじが、あたふたと、郭を探しにはいってきた。郭の所有物を調べた。ズックの袋も、破れ靴も、夏の帽子も何一つ残っていなかった。
「くそッ! 畜生! 百円がところ品物を持ち逃げしやがった!」おやじは口をとがらしていた。
 呉清輝と田川とはおやじが扉の外に見えなくなると、吹きだすようにヒヒヒヒと笑いだした。
 三日たった。呉清輝は、一方の腕を頸にぶらさげたまま、起《おき》て橇に荷物を積んだ。香水、クリイム、ピン、水白粉、油、ヘアネット、摺《す》り硝子《ガラス》の扇形の壜《びん》、ヘチマ形の壜。提灯《ちょうちん》形の壜。いろいろさまざまな恰好の壜がはいったボール箱が橇いっぱいに積みこまれた。呉は、その上へアンペラを置いた。そして、その上へ、秣草《まぐさ》を入れた麻袋を置いた。傷ついた腕はまだ傷そうであった。しかし、人には、もうだいじょうぶだ、癒《なお》った、と言った。
「一人で出かけるのかい!」
 田川は訊ねた。
「うむ、お前も行きたいか? 連てってやろうか」
 呉清輝は、小鼻でくッくッと笑って、自分の所有物を纏《まと》めた。河のかなたへ※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1−92−56]《ずらか》ってしまうのだ。
「俺ゃ、まだ起られねえ」
 晩が来ると、夜がふけるのを待たずに呉は出発した。
 田川は、ベットに横たわっていた。
「気をつけろよ」
 呉は出かけに言った。
「ああ」
 一時間して、おやじが支那人部屋へとびこんできた。おやじは、また、郭進才の場合のように呉の床箆子の附近をさがしまわって、破った、虱《しらみ》のいる肌着が一枚丸めて放ってあるのをつまみ上げ、舌打ちをした。
「チッ! まったく、油断もすきもならん! 貴様は、こらッ、田川! ここに寝ていて呉が何をしていたか分ったであろうが!」
 田川は、毛布をひっかむって眠ったふりをしていた。そして、おやじが出て行った後で声をあげて愉快げに笑った。

 だが、数日の後、おやじは、別の支那人をつれてきた。保証金を取った。そして、倉庫に休んでいる品々を別の橇に積みこませた。

     四

 黒竜江の結氷が轟音《ごうおん》とともに破れ、氷塊《ひょうかい》は、濁流《だくりゅう》に押し流されて動きだす春がきた。
 河蒸汽ののどかな汽笛が河岸に響きわたった。雪解の水は、岸から溢れそうにもれ上がっている。帆をあげた舟、発動汽船、ボート、櫓《ろ》で漕《こ》ぐ舟、それらのものが春のぽかぽかする陽光をあびて上ったり下ったりした。
 黒河からブラゴウエシチェンスクへは、もう、舟に乗らなければ渡ってくることはできない。しかし、警戒兵は、油断がならなかった。税関の船着場以外へ、毎晩、支那人の舟が闇に乗じてしのびよってきた。舟は、暗い。霧がおりた流れを、上流にむかって漕ぎのぼって行く。三四丁のぼると、すきを伺って、相手の頸もとへひらりと飛びこんでくるシャモのように、舳《へさき》の向きをかえ、矢のように流れ下りながら、こちらへ泳ぎついてきた。そして、河岸へ這い上ると、それぞれの物を衣服の下や、長靴の中にしのばして、村の方へ消えて行った。
 哈爾賓《ハルピン》から運ばれたばかりのものを持ちこんでいるのだ。
 警戒兵は見のがすわけには行かなかった。
 彼れらは、まったく手ぶらで、ただ、衣服を着けただけで上がってくる。たんなる労働者か、百姓のように見えた。ところが、上衣を引きはぐと、どこにどうしてかくしているのか、五十足の靴下が、ばらば
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