らと足もとへ落ちてきた。一人の少年が三十七個の化粧品の壜を持っていた。逃げる奴は射撃した。
 それは、一時途絶えたかと思うと、また、警戒兵が気を許している時をねらって、闇に乗じてしのびよってきた。
 五月にもやってきた。六月にもやってきた。七月にもやってきた。
「畜生! あいつらのしつこいのには根負けがしそうだぞ!」
 ワーシカは、夜が短い白夜を警戒した。涼しかった。黒竜江の濁った流れを見ながら、大またに、のしのしと行ったりきたりするのは、いい気持のものだ。
 八月に入って、密輸入者はどうしたのか、ふッと一人も発見されなくなった。「しかし、これで油断をしていると、またきゅうに、ドカドカと押しよせてくるんだぞ!」と警戒兵は考えた。
 ある日だ。太陽が没して、まだ、あたりが白く見えていた。対岸の三十メートル突きだした一番地理にめぐまれた地点から、三艘の舟が列をなして、こちらの岸へ吸いつけられるように流れてきた。ワーシカがこれを見た。彼れは身をひそめて待ちかまえた。
 舟は、矢のように岸へ流れ着いた。支那語で笑い喋りながら、六七人の若者がごそごそとあがってきた。ワーシカは、一種の緊張《きんちょう》から、胸がドキドキした。
「待て!」
 彼れは、小屋のかげから着剣した銃を持って踊りでた。
 若者は立止った。そして、
「何でがすか? タワリシチ!」
 馴れ馴れしい言葉をかけた。倶楽部《クラブ》で顔見知りの男が二人いた。中国人労働組合の男だ。
「や!」
 ワーシカは、ひょくんとして立止った。
「今晩は、タワーリシチ! 倶楽部で催しがあるんでしょう? 行ってもいいですか」
「ああ、よろしい」
 青年たちは愉快げに笑いながら番小屋の前を通りすぎて行った。ワーシカは、ポカンとして、しばらくそこに不思議がりながら立っていた。密輸入者はどうしたんだろう。
 だが、間もなく、ワーシカの疑問は解決された。朝鮮銀行がやっていた、暗黒相場のルーブル売買が禁止されたのが明らかになった。密輸入者が国外へ持ちだしたルーブル紙幣を金貨に換える換え場がなくなったのだ。
 日本のブル新聞は、鮮銀と、漁業会社に肩を持って、ぎょうぎょうしげに問題を取り上げていた。
 しかし、「そうだ、もっと早くから、ルーブル紙幣の暗黒売買を禁止しとかなけゃならなかったのだ! これさえ抑えとけば、香水をつけたり、絹の靴下をはいたりして、封建時代の気分を呼び戻そうとするような、反動分子に何も手にはいれゃしなかったのだ! プロレタリアの国に喰い下ろうとするブルジョアどもも何も手出しができやしなかったのだ!」と考えていた。
「よろしく、今のうちにその根から掘取りおくべしだ!」



底本:「日本文学全集 44」集英社
   1969(昭和44)年10月11日発行
初出:「戦旗」
   1931(昭和6)年2月
入力:岡本ゆみ子
校正:noriko saito
2009年10月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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