渦巻ける烏の群
黒島伝治
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)外套《がいとう》にくるまって
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)防寒|外套《がいとう》の裾のあたりへ
※:外字
(例)サモ※[#「※」は「ワ」に濁点、21−3−9]ール
[#]:入力者注
(例)今晩は[#「ズラシテ」の注記]
×:伏せ字
(例)それは、××××なのだ。
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一
「アナタア、ザンパン、頂だい。」
子供達は青い眼を持っていた。そして、毛のすり切れてしまった破れ外套《がいとう》にくるまって、頭を襟の中に埋《うず》めるようにすくんでいた。娘もいた。少年もいた。靴が破れていた。そこへ、針のような雪がはみこんでいる。
松木は、防寒靴をはき、ズボンのポケットに両手を突きこんで、炊事場の入口に立っていた。
風に吹きつけられた雪が、窓《まど》硝子《ガラス》を押し破りそうに積りかかっていた。谷間の泉から湧き出る水は、その周囲に凍《い》てついて、氷の岩が出来ていた。それが、丁度、地下から突き出て来るように、一昨日よりは昨日、昨日よりは今日の方がより高くもれ上って来た。彼は、やはり西伯利亜《シベリア》だと思った。氷が次第に地上にもれ上って来ることなどは、内地では見られない現象だ。
子供達は、言葉がうまく通じないなりに、松木に憐れみを求め、こびるような顔つきと態度とを五人が五人までしてみせた。
彼等が口にする「アナタア」には、露骨にこびたアクセントがあった。
「ザンパンない?」子供達は繰かえした。「……アナタア! 頂だい、頂だい!」
「あるよ。持って行け。」
松木は、残飯桶《ざんぱんおけ》のふちを操《と》って、それを入口の方へころばし出した。
そこには、中隊で食い残した麦飯が入っていた。パンの切れが放りこまれてあった。その上から、味噌汁の残りをぶちかけてあった。
子供達は、喜び、うめき声を出したりしながら、互いに手をかきむしり合って、携えて来た琺瑯引《ほうろうび》きの洗面器へ残飯をかきこんだ。
炊事場は、古い腐った漬物の臭いがした。それにバターと、南京袋《なんきんぶくろ》の臭いがまざった。
調理台で、牛蒡《ごぼう》を切っていた吉永が、南京袋の前掛けをかけたまま入口へやって来た。
武石は、ぺーチカに白樺の薪を放りこんでいた。ぺーチカの中で、白樺の皮が、火にパチパチはぜった。彼も入口へやって来た。
「コーリヤ。」
松木が云った。
「何?」
コーリヤは眼が鈴のように丸くって大きく、常にくるくる動めいている、そして顔にどっか尖《とが》ったところのある少年だった。
「ガーリヤはいるかね?」
「いるよ。」
「どうしてるんだ。」
「用をしてる。」
コーリヤは、その場で、汁につかったパン切れをむしゃむしゃ頬張っていた。
ほかの子供達も、或はパンを、或は汁づけの飯を手に掴《つか》んでむしゃむしゃ食っていた。
「うまいかい?」
「うむ。」
「つめたいだろう。」
彼等は、残飯桶の最後の一粒まで洗面器に拾いこむと、それを脇にかかえて、家の方へ雪の丘を馳《は》せ登《のぼ》った。
「有がとう。」
「有がとう。」
「有がとう。」
子供達の外套や、袴《はかま》の裾が風にひらひらひるがえった。
三人は、炊事場の入口からそれを見送っていた。
彼等の細くって長い脚は、強いバネのように、勢いよくぴんぴん雪を蹴って、丘を登っていた。
「ナーシヤ!」
「リーザ!」
武石と吉永とが呼んだ。
「なアに?」
丘の上から答えた。
子供達は、皆な、一時に立止まって、谷間の炊事場を見下した。
「飯をこぼすぞ。」
吉永が日本語で云った。
「なアに?」
吉永は、少女にこちらへ来るように手まねきをした。
丘の上では、彼等が、きゃあきゃあ笑ったり叫んだりした。
そして、少し行くと、それから自分の家へ分れ分れに散らばってしまった。
二
山が、低くなだらかに傾斜して、二つの丘に分れ、やがて、草原に連って、広く、遠くへ展開している。
兵営は、その二つの丘の峡間にあった。
丘のそこかしこ、それから、丘のふもとの草原が延びて行こうとしているあたり、そこらへんに、露西亜《ロシア》人《じん》の家が点々として散在していた。革命を恐れて、本国から逃げて来た者もあった。前々から、西伯利亜に土着している者もあった。
彼等はいずれも食うに困っていた。彼等の畑は荒され、家畜は掠奪《りゃくだつ》された。彼等は安心して仕事をすることが出来なかった。彼等は生活に窮するより外、道がなかった。
板壁の釘が腐って落ちかけた木造の家に彼等は住んでいた。屋根は低かった。家の周囲には、藁《わら》やごみを散らかしてあった。
処々に、うず高く積上げられた乾草があった。
荷車は、軒場に乗りつけたまま放ってあった。
室内には、古いテーブルや、サモ※[#「※」は「ワ」に濁点、21−3−9]ールがあった。刺繍《ししゅう》を施したカーテンがつるしてあった。でも、そこからは、動物の棲家《すみか》のように、異様な毛皮と、獣油の臭いが発散して来た。
それが、日本の兵卒達に、如何にも、毛唐の臭いだと思わせた。
子供達は、そこから、琺瑯引きの洗面器を抱えて毎日やって来た。ある時は、老人や婆さんがやって来た。ある時は娘がやって来た。
吉永は、一中隊から来ていた。松木と武石とは二中隊の兵卒だった。
三人は、パン屑《くず》のまじった白砂糖を捨てずに皿に取っておくようになった。食い残したパンに味噌汁をかけないようにした。そして、露西亜人が来ると、それを皆に分けてやった。
「お前ンとこへ遊びに行ってもいいかい?」
「どうぞ。」
「何か、いいことでもあるかい?」
「何ンにもない。……でもいらっしゃい、どうぞ。」
その言葉が、朗らかに、快活に、心から、歓迎しているように、兵卒達には感じられた。
兵卒は、殆んど露西亜《ロシア》語《ご》が分らなかった。けれども、そのひびきで、自分達を歓迎していることを、捷《すばや》く見てとった。
晩に、炊事場の仕事がすむと、上官に気づかれないように、一人ずつ、別々に、息を切らしながら、雪の丘を攀《よ》じ登《のぼ》った。吐き出す呼気が凍《こご》って、防寒帽の房々した毛に、それが霜のようにかたまりついた。
彼等は、家庭の温かさと、情味とに飢え渇していた。西伯利亜へ来てから何年になるだろう。まだ二年ばかりだ。しかし、もう十年も家を離れ、内地を離れているような気がした。海上生活者が港にあこがれ、陸を恋しがるように、彼等は、内地にあこがれ、家庭を恋しがった。
彼等の周囲にあるものは、はてしない雪の曠野《こうや》と、四角ばった煉瓦《れんが》の兵営と、撃ち合いばかりだ。
誰のために彼等はこういうところで雪に埋れていなければならないだろう。それは自分のためでもなければ親のためでもないのだ。懐手をして、彼等を酷使していた者どものためだ。それは、××××なのだ。
敵のために、彼等は、只働きをしてやっているばかりだ。
吉永は、胸が腐りそうな気がした。息づまりそうだった。極刑に処せられることなしに兵営から逃出し得るならば、彼は、一分間と雖《いえど》も我慢していたくはなかった。――僅かの間でもいい、兵営の外に出たい、情味のある家庭をのぞきたい。そういう慾求を持って、彼は、雪の坂道を攀じ登った。
丘の上には、リーザの家があった。彼はそこの玄関に立った。
扉には、隙間風が吹きこまないように、目貼《めば》りがしてあった。彼は、ポケットから手を出して、その扉をコツコツ叩いた。
「|今晩は《ズラシテ》。」
屋内ではぺーチカを焚《た》き、暖気が充ちている。その気はいが、扉の外から既に感じられた。
「今晩は。」
「どうぞ、いらっしゃい。」
朗らかで張りのある女の声が扉を通してひびいて来た。
「まあ、ヨシナガサン! いらっしゃい。」
娘は嬉しそうに、にこにこしながら、手を出した。
彼は、始め、握手することを知らなかった。それまで、握手をしたことがなかったのだ。何か悪いことをするように、胸がおどおどした。
が、まもなく、平気になってしまった。
のみならず、相手がこちらの手を強く握りかえした時には、それは、何を意味しているか、握手と同時に、眼をどう使うと、それはこう云っているのだ。気がすすまぬように、だらりと手を出せば、それは見込がない。等々……。握手と同時に現われる、相手の心を読むことを、彼は心得てしまった。
吉永がテーブルと椅子と、サモ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ールとがある部屋に通されている時、武石は、鼻から蒸気を吐きながら、他の扉を叩いていた。それから、稲垣、大野、川本、坂田、みなそれぞれ二三分間おくれて、別の扉を叩くのであった。
「|今晩は《ズラシテ》。」
そして、相手がこちらの手を握りかえす、そのかえしようと、眼に注意を集中しているのであった。
彼等のうちのある者は、相手が自分の要求するあるものを与えてくれる、とその眼つきから読んだ。そして胸を湧き立たせた。
「よし、今日は、ひとつ手にキスしてやろう。」
一人の女に、二人がぶつかることがあった。三人がぶつかることもあった。そんな時、彼等は、帰りに、丘を下りながら、ひょいと立止まって、顔を見合わせ、からから笑った。
「ソぺールニクかな。」
「ソぺールニクって何だい?」
「ソぺールニク……競争者だよ。つまり、恋を争う者なんだ。ははは。」
三
松木も丘をよじ登って行く一人だった。
彼は笑ってすませるような競争者がなかった。
彼は、朗らかな、張りのある声で、「いらっしゃい、どうぞ!」と女から呼びかけられたこともなかった。
若《も》しそれが恋とよばれるならば、彼の恋は不如意な恋だった。彼は、丘を登りしなに、必ず、パンか、乾麺麭《かんめんぽう》か、砂糖かを新聞紙に包んで持っていた。それは兵卒に配給すべきものの一部をこっそり取っておいたものだった。彼は、それを持って丘を登り、そして丘を向うへ下った。
三十分ほどたつと、彼は手ぶらで、悄然《しょうぜん》と反対の方から丘を登り、それから、兵営へ丘を下って帰って来た。ほかの者たちは、まだ、ぺーチカを焚いている暖かい部屋で、胸をときめかしている時分だった。
「ああ、もうこれでやめよう!」彼は、ぐったり雪の上にへたばりそうだった。「あほらしい。」
丘のふもとに、雪に埋れた広い街道がある。雪は橇《そり》や靴に踏みつけられて、固く凍っている。そこへ行くまでに、聯隊《れんたい》の鉄条網が張りめぐらされてあった。彼は、毎晩、その下をくぐりぬけ、氷で辷《すべ》りそうな道を横切って、ある窓の下に立ったのであった。
「ガーリヤ!」
彼は、指先で、窓《まど》硝子《ガラス》をコツコツ叩いた。肺臓まで凍りつきそうな寒い風が吹きぬけて行った。彼は、その軒の下で暫らく佇《たたず》んでいた。
「ガーリヤ!」
そして、また、硝子を叩いた。
「何?」
女が硝子窓の向うから顔を見せた。唇の間に白い歯がのぞいている。それがひどく愛嬌《あいきょう》を持っている。
「這入ってもいい?」
「それ何?」
「パンだ。あげるよ。」
女は、新聞紙に包んだものを窓から受取ると、すぐ硝子戸を閉めた。
「おい、もっと開けといてくれんか。」
「……室《へや》が冷えるからだめ。――一度開けると薪三本分損するの。」
彼女は、桜色の皮膚を持っていた。笑いかけると、左右の頬に、子供のような笑窪が出来た。彼女は悪い女ではなかった。だが、自分に出来ることをして金を取らねばならなかった。親も、弟も食うことに困っているのだ。子供を持っている姉は、夫に吸わせる煙草を貰いに来た。
松木は、パンを持って来た。砂糖を持って来た。それから、五円六十銭の俸給で何かを買って持って来た。
でも、彼女の一家の生活を支えるには、あまりに金を持っていなすぎる。もっとよけいに俸給を取っ
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