ている者が望ましい。
 肉に饉《う》えているのは兵卒ばかりではなかった。
 松木の八十五倍以上の俸給を取っているえらい[#「えらい」に傍点]人もやはり貪慾《どんよく》に肉を求めているのであった。
「私、用があるの。すみません、明日来てくださらない。」
 ガーリヤは云った。
「いつでも明日来いだ。で、明日来りゃ、明後日だ。」
「いえ、ほんとに明日、――明日待ってます。」

   四

 雪は深くなって来た。
 炊事場へザンパンを貰いに来る者たちが踏み固めた道は、新しい雪に蔽《おお》われて、あと方も分らなくなった。すると、子供達は、それを踏みつけ、もとの通りの道をこしらえた。
 雪は、その上へまた降り積った。
 丘の家々は、石のように雪の下に埋れていた。
 彼方の山からは、始終、パルチザンがこちらの村を覗《うかが》っていた。のみならず、夜になると、歩哨《ほしょう》が、たびたび狼に襲われた。四肢が没してもまだ足りない程、深い雪の中を、狼は素早く馳《は》せて来た。
 狼は山で食うべきものが得られなかった。そこで、すきに乗じて、村落を襲い、鶏や仔犬や、豚をさらって行くのであった。彼等は群をなして、わめきながら、行くさきにあるものは何でも喰い殺さずにはおかないような勢いでやって来た。歩哨は、それに会うと、ふるえ上らずにはいられなかった。こちらは銃を持っているとは云え、二人だけしかいないのだ。慄悍《ひょうかん》な動物は、弾丸をくぐって直ちに、人に迫って来る。それは全く凄いものだった。衛兵は総がかりで狼と戦わねばならなかった。悪くすると、腋《わき》の下《した》や、のどに喰いつかれるのだ。
 薄ら曇りの日がつづいた。昼は短く、夜は長かった。太陽は、一度もにこにこした顔を見せなかった。松木は、これで二度目の冬を西伯利亜で過しているのであった。彼は疲れて憂欝《ゆううつ》になっていた。太陽が、地球を見棄ててどっかへとんで行っているような気がした。こんな状態がいつまでもつづけばきっと病気にかかるだろう。――それは、松木ばかりではなかった。同年兵が悉《ことごと》く、ふさぎこみ、疲憊《ひはい》していた。そして、女のところへ行く。そのことだけにしか興味を持っていなかった。
 ガーリヤは、人眼をしのぶようにして炊事場へやって来た。古いが、もとは相当にものが良かったらしい外套《がいとう》の下から、白く洗い晒《さら》された彼女のスカートがちらちら見えていた。
「お前は、人をよせつけないから、ザンパンが有ったってやらないよ。」
「あら、そう。」
 彼女は響きのいい、すき通るような声を出した。
「そうだとも、あたりまえだ。」
「じゃいい。」
 黒く磨かれた、踵《かがと》の高い靴で、彼女はきりっと、ブン廻しのように一とまわりして、丘の方へ行きかけた。
「いや、うそだうそだ。今さっきほかの者が来てすっかり持って行っちゃったんだ。」
 松木はうしろから叫んだ。
「いいえ、いらないわ。」
 彼女の細長い二本の脚は、強いばねのように勢いよくはねながら、丘を登った。
「ガーリヤ! 待て! 待て!」
 彼は乾麺麭《かんめんぽう》を一袋握って、あとから追っかけた。
 炊事場の入口へ同年兵が出てきて、それを見て笑っていた。
 松木は息を切らし切らし女に追いつくと、空の洗面器の中へ乾麺麭の袋を放り込んだ。
「さあ、これをやるよ。」
 ガーリヤは立止まって彼を見た。そして真白い歯を露《あら》わして、何か云った。彼は、何ということか意味が汲みとれなかった。しかし女が、自分に好感をよせていることだけは、円みのあるおだやかな調子ですぐ分った。彼は追っかけて来ていいことをしたと思った。
 帰りかけて、うしろへ振り向くと、ガーリヤは、雪の道を辷《すべ》りながら、丘を登っていた。
「おい、いいかげんにしろ。」炊事場の入口から、武石が叫んだ。「あんまりじゃれつきよると競争に行くぞ!」

   五

 吉永の中隊は、大隊から分れて、イイシへ守備に行くことになった。
 HとSとの間に、かなり広汎《こうはん》な区域に亘って、森林地帯があった。そこには山があり、大きな谷があった。森林の中を貫いて、河が流ていた。そのあたりの地理は詳細には分らなかった。
 だが、そこの鉄橋は始終破壊された。枕木はいつの間にか引きぬかれていた。不意に軍用列車が襲撃された。
 電線は切断されづめだった。
 HとSとの連絡は始終断たれていた。
 そこにパルチザンの巣窟があることは、それで、ほぼ想像がついた。
 イイシへ守備中隊を出すのは、そこの連絡を十分にするがためであった。
 吉永は、松木の寝台の上で私物を纏《まと》めていた。炊事場を引き上げて、中隊へ帰るのだ。
 彼は、これまでに、しばしば危険に身を曝《さら》したことを思った。
 弾丸に倒れ、眼を失い、腕を落した者が、三人や四人ではなかった。
 彼と、一緒に歩哨に立っていて、夕方、不意に、胸から血潮を迸《ほと》ばしらして、倒れた男もあった。坂本という姓だった。
 彼は、その時の情景をいつまでもまざまざと覚えていた。
 どこからともなく、誰れかに射撃されたのだ。
 二人が立っていたのは山際だった。
 交代の歩哨は衛兵所から列を組んで出ているところだった。もう十五分すれば、二人は衛兵所へ帰って休めるのだった。
 夕日が、あかあかと彼方の地平線に落ちようとしていた。牛や馬の群が、背に夕日をあびて、草原をのろのろ歩いていた。十月半ばのことだ。
 坂本は、
「腹がへったなあ。」と云ってあくびをした。
「内地に居りゃ、今頃、野良から鍬《くわ》をかついで帰りよる時分だぜ。」
「あ、そうだ。もう芋を掘る時分かな。」
「うむ。」
「ああ、芋が食いたいなあ!」
 そして坂本はまたあくびをした。そのあくびが終るか終らないうちに、彼は、ぱたりと丸太を倒すように芝生の上に倒れてしまった。
 吉永は、とび上った。
 も一発、弾丸が、彼の頭をかすめて、ヒウと唸《うな》り去った。
「おい、坂本! おい!」
 彼は呼んでみた。
 軍服が、どす黒い血に染った。
 坂本はただ、「うう」と唸るばかりだった。
 内地を出発して、ウラジオストックへ着き、上陸した。その時から、既に危険は皆の身に迫っていたのであった。
 機関車は薪を焚《た》いていた。
 彼等は四百里ほど奥へ乗りこんで行った。時々列車からおりて、鉄砲で打ち合いをやった。そして、また列車にかえって、飯を焚いた。薪が燻《くすぶ》った。冬だった。機関車は薪がつきて、しょっちゅう動かなくなった。彼は二カ月間顔を洗わなかった。向うへ着いた時には、まるで黒ン坊だった。息が出来ぬくらいの寒さだった。そして流行感冒がはやっていた。兵営の上には、向うの飛行機が飛んでいた。街には到るところ、赤旗が流れていた。
 そこでどうしたか。結局、こっちの条件が悪く、負けそうだったので、持って帰れぬ什器《じゅうき》を焼いて退却した。赤旗が退路を遮った。で、戦争をした。そして、また退却をつづけた。赤旗は流行感冒のように、到るところに伝播《でんぱ》していた。また戦争だ。それからどうしたか?……
 雪解の沼のような泥濘《でいねい》の中に寝て、戦争をしたこともあった。頭の上から、機関銃をあびせかけられたこともあった。
 吉永は、自分がよくもこれまで生きてこられたものだと思った。一尺か二尺、自分の立っていた場所が横へそれていたら、死んでいるかもしれないのだ。
 これからだって、どうなることか、分るものか! 分るものか! 俺が一人死ぬことは、誰れも屁《へ》とも思っていないのだ。ただ、自分のことを心配してくれるのは、村で薪出しをしているお母《ふくろ》だけだ。
 彼は、お母がこしらえてくれた守り袋を肌につけていた。新しい白木綿で縫った、かなり大きい袋だった。それが、垢《あか》や汗にしみて黒く臭くなっていた。彼は、それを開けて、新しい袋を入れかえようと思った。彼は、袋を鋏《はさみ》で切り開けた。お守りが沢山慾張って入れてある。金刀比羅宮《ことひらぐう》、男山八幡宮《おとこやまはちまんぐう》、天照皇大神宮、不動明王、妙法蓮華経、水天宮。――母は、多ければ多いほど、御利益があると思ったのだろう! それ等が、殆んど紙の正体が失われるくらいにすり切れていた。――まだある。別に、紙に包んだ奴が。彼はそれを開けてみた。そこには紙幣が入っていた。五円札と、五十銭札と、一円札とが合せて十円ぐらい入っている。母が、薪出しをしてためた金を内所《ないしょ》で入れといてくれたのだろう。
「おい、おい。お守りの中から金が出てきたが。」
 吉永は嬉しそうに云った。
「何だ。」
「お守りの中から金が出てきたんだ。」
「ほんとかい。」
「嘘を云ったりするもんか。」
「ほう、そいつぁ、儲《もう》けたな。」
 松木と武石とが調理台の方から走《は》せ込《こ》んで来た。
 札も、汗と垢とで黒くなっていた。
「どれどれ、内地の札だな。」松木と武石とはなつかしそうに、それを手に取って見た。「内地の札を見るんは久しぶりだぞ。」
「お母が多分内所で入れてくれたんだ。」
「それをまた今まで知らなかったとは間がぬけとるな。……全く儲けもんだ。」
「うむ、儲けた。……半分わけてやろう。」
 吉永は、自分が少くとも、明後日は、イイシへ行かなければならないことを思った。雪の谷や、山を通らなければならない。そこにはパルチザンがいる。また撃ち合いだ。生命がどうなるか。誰れが知るもんか! 誰れが知るもんか!

   六

 松木は、酒保から、餡《あん》パン、砂糖、パインアップル、煙草などを買って来た。
 晩におそくなって、彼は、それを新聞紙に包んで丘を登った。石のように固く凍《い》てついている雪は、靴にかちかち鳴った。空気は鼻を切りそうだ。彼は丘を登りきると、今度は向うへ下った。丘の下のあの窓には、灯がともっていた。人かげが、硝子《ガラス》戸《ど》の中で、ちらちら動いていた。
 彼は歩きながら云ってみた。
「ガーリヤ。」
「ガーリヤ。」
「ガーリヤ。」
「あんたは、なんて生々しているんだろう。」
 さて、それを、ロシア語ではどう云ったらいいかな。
 丘の下でどっか人声がするようだった。三十すぎの婦人の声だ。それに一人は日本人らしい。何を云っているのかな。彼はちょいと立止まった。なんでも声が、ガーリヤの母親に似ているような気がした。が、声は、もうぷっつり聞えなかった。すると、まもなくすぐそこの、今まで開いていた窓に青いカーテンがさっと引っぱられた。
「おや、早や、寝る筈はないんだが……」彼はそう思った。そして、鉄条網をくぐりぬけ、窓の下へしのびよった。
「今晩は、――ガーリヤ!」
 ――彼が窓に届くように持って来ておいた踏石がとりのけられている。
「ガーリヤ。」
 砕かれた雪の破片が、彼の方へとんで来た。彼の防寒|外套《がいとう》の裾のあたりへぱらぱらと落ちた。雪はまたとんできた。彼の背にあたった。でも彼は、それに気づかなかった。そして、じいっと、窓を見上げていた。
「ガーリヤ!」
 彼は、上に向いて云った。星が切れるように冴えかえっていた。
「おい、こらッ!」
 さきから、雪を投げていた男が、うしろの白樺のかげから靴をならしてとび出て来た。武石だった。
 松木は、ぎょっとした。そして、新聞紙に包んだものを雪の上へ落しそうだった。
 彼は、若《も》し将校か、或は知らない者であった場合には、何もかも投げすてて逃げ出そうと瞬間に心かまえたくらいだった。
「また、やって来たな。」武石は笑った。
「君かい。おどかすなよ。」
 松木は、暫らく胸がどきどきするのが止まらなかった。彼は、武石だと知ると同時に、吉永から貰った金で、すぐさま、女の喜びそうなものを買って来たことをきまり悪く思った。「砂糖とパイナップルは置いて来ればよかった。」
「誰れかさきに、ここへ来た者があるんだ。」と武石が声を落して窓の中を指した。「俺れゃ、君が這入ったんかと思うて、ここで様子を伺うとったんだ
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