。」
「誰れだ?」
「分らん。」
「下士か、将校か?」
「ぼっとしとって、それが分らないんだ。」
「誰奴《どいつ》かな。」
「――中に這入って見てやろう。」
「よせ、よせ、……帰ろう。」
 松木は、若し将校にでも見つかると困る、――そんなことを思った。
「このまま帰るのは意気地がないじゃないか。」
 武石は反撥《はんぱつ》した。彼は、ガンガン硝子戸を叩いた。
「ガーリヤ、ガーリヤ、|今晩は《ズラシテ》!」
 次の部屋から面倒くさそうな男の声がひびいた。
「ガーリヤ!」
「何だい。」
 ウラジオストックの幼年学校を、今はやめている弟のコーリヤが、白い肩章のついた軍服を着てカーテンのかげから顔を出した。
「ガーリヤは?」
「用をしてる。」
「一寸来いって。」
「何です? それ。」
 コーリヤは、松木の新聞包を見てたずねた。
「こら酒だ。」松木が答えないさきに、武石が脚もとから正宗の四合|罎《びん》を出して来た。「沢山いいものを持って来とるよ。」
 武石は、包みの新聞紙を引きはぎ、硝子戸の外から、罎をコーリヤの眼のさきへつき出した。松木は、その手つきがものなれているなと思った。
「|呉れ《ダワイ》。」コーリヤは手を動かした。
 でも、その手つきにいつものような力がなく、途中で腰を折られたように挫《くじ》けた。いつも無遠慮なコーリヤに珍らしいことだった。
 武石も、物を持って来て、やっているんだな、と松木は思った。じゃ、自分もやることは恥かしくない訳だ。彼はコーリヤが遠慮するとなおやりたくなった。
「さ、これもやるよ。」彼は、パイナップルの鑵詰《かんづめ》を取出した。
 コーリヤはもじもじしていた。
「さ、やるよ。」
「有がとう。」
 顔にどっか剣のある、それで一寸沈んだ少年が、武石には、面白そうな奴だと思われた。
「もっとやろうか。」
 少年は呉れるものは欲しいのだが、貰っては悪いというように、遠慮していた。
「煙草と砂糖。」松木は、窓口へさし上げた。
「有がとう。」
 コーリヤが、窓口から、やったものを受取って向うへ行くと、
「きっと、そこに誰れか来とるんだ。」と、武石は、小声で、松木にささやいた。
「誰れだな、俺れゃどうも見当がつかん。」
「這入りこんで現場を見届けてやろう。」
 二人は耳をすました。二つくらい次の部屋で、何か気配がして、開けたてに扉が軋《きし》る音が聞えてきた。サーベルの鞘《さや》が鳴る。武石は窓枠に手をかけて、よじ上り、中をのぞきこんだ。
「分るか。」
「いや、サモ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ールがじゅんじゅんたぎっとるばかりだ。――ここはまさか、娘を売物にしとる家じゃないんだろうな。」
 コーリヤが扉《ドア》のかげから現れて来た。窓から屋内へ這入ろうとするかのように、よじ上っている武石を見ると、彼は急に態度をかえて、
「いけない! いけない!」叱るように、かすれた幅のある声を出した。
 武石は、突然、その懸命な声に、自分が悪いことをしているような感じを抱かせられ、窓から辷《すべ》り落《お》ちた。
 コーリヤは、窓の方へ来かけて、途中、ふとあとかえりをして、扉をぴしゃっと閉めた。暫らく二人は窓の下に佇《たたず》んでいた。丘の上の、雪に蔽《おお》われた家々には、灯がきらきら光っていた。武石は、そこにも女がいることを思った。吉永が、温かい茶をのみながら、リーザと名残を惜んでいるかも知れない。やせぎすな、小柄なリーザに、イイシまで一緒に行くことをすすめているだろう。多分、彼も、何かリーザが喜びそうなものを買って持って行っているのに違いない。武石は、小皺《こじわ》のよった、人のよさそうな、吉永の顔を思い浮べた。そして、自から、ほほ笑ましくなった。――吉永は、危険なイイシ守備に行ってしまうのだ。
 丘の上のそこかしこの灯が、カーテンにさえぎられ、ぼつぼつ消えて行った。
「お休み。」
 一番手近の、グドコーフの家から、三四人同年兵が出て行った。歩きながら交す、その話声が、丘の下までひびいて来た。兵営へ帰っているのだ。
 不意に頭の上で、響きのいい朗らかなガーリヤの声がした。二人は、急に、それでよみがえったような気がした。
「ばあ!」彼女は、硝子《ガラス》戸《ど》の中から、二人に笑って見せた。「いらっしゃい、どうぞ。」
 玄関から這入ると、松木は、食堂や、寝室や、それから、も一つの仕事部屋をのぞきこんだ。
「誰れが来ていたんです?」
「少佐《マイヨール》。」
「何?」二人とも言葉を知らなかった。
「マイヨールです。」
「何だろう。マイヨールって。」松木と武石とは顔を見合わした。「振《ま》い寄る[#「寄る」に傍点]と解釈すりゃ、ダンスでもする奴かな。」

   七

 少佐は、松木にとって、笑ってすませる競争者ではなかった。
 二人が玄関から這入って行った、丁度その時、少佐は勝手口から出て来た。彼は不機嫌に怒って、ぷりぷりしていた。十八貫もある、でっぷり肥った、髯《ひげ》のある男だ。彼の靴は、固い雪を蹴散らした。いっぱいに拡がった鼻の孔《あな》は、凍った空気をかみ殺すように吸いこみ、それから、その代りに、もうもうと蒸気を吐き出した。
 彼は、屈辱(!)と憤怒《ふんぬ》に背が焦げそうだった。それを、やっと我慢して押しこらえていた。そして、本部の方へ大股に歩いて行った。……途中で、ふと、彼は、踵《きびす》をかえした。
 つい、今さっきまで、松木と武石とが立っていた窓の下へ少佐は歩みよった。彼は、がん丈で、せいが高かった。つまさきで立ち上らずに、カーテンの隙間から部屋の中が見えた。
 そこには、二人の一等卒が、正宗の四合|壜《びん》を立てらして、テーブルに向い合っていた。ガーリヤは、少し上気したような顔をして喋《しゃべ》っている。白い歯がちらちらした。薄荷《はっか》のようにひりひりする唇が微笑している。
 彼は、嫉妬《しっと》と憤怒が胸に爆発した。大隊を指揮する、取っておきのどら声で怒なりつけようとした。その声は、のどの最上部にまで、ぐうぐう押し上げて来た。
 が、彼は、必死の努力で、やっとそれを押しこらえた。そして、前よりも二倍位い大股に、聯隊《れんたい》へとんで帰った。
「女のところで酒をのむなんて、全くけしからん奴だ!」
 営門で捧《ささ》げ銃《つつ》をした歩哨《ほしょう》は何か怒声をあびせかけられた。
 衛兵司令は、大隊長が鞭《むち》で殴りに来やしないか、そのひどい見幕を見て、こんなことを心配した位いだった。
「副官!」
 彼は、部屋に這入るといきなり怒鳴った。
「副官!」
 副官が這入って来ると、彼は、刀もはずさず、椅子に腰を落して、荒い鼻息をしながら、
「速刻不時点呼。すぐだ、すぐやってくれ!」
「はい。」
「それから、炊事場へ露西亜人《ロシアじん》をよせつけることはならん。残飯は一粒と雖《いえど》も、やることは絶対にならん。厳禁してくれ。」
「はい。」
「よし、それだけだ。」
 副官が、命令を達するために、次の部屋へ引き下ると、彼はまた叫んだ。
「副官!」
「はい。」
「この点呼に、もしもおくれる者があったら、その中隊を、第一中隊の代りに、イイシ守備に行かせること、そうしてくれ、罰としてここには置かない。そうするんだ。――すぐだ、速刻やってくれ!」

   八

 一隊の兵士が雪の中を黙々として歩いて行った。疲れて元気がなかった。雪に落ちこむ大きな防寒靴が、如何にも重く、邪魔物のように感じられた。
 雪は、時々、彼等の脛《すね》にまで達した。すべての者が憂欝《ゆううつ》と不安に襲われていた。中隊長の顔には、焦慮の色が表われている。
 草原も、道も、河も悉《ことごと》く雪に蔽われていた。
 枝に雪をいただいて、それが丁度、枝に雪がなっているように見える枯木が、五六本ずつ所々に散見する外、あたりには何物も見えなかった。どこもかしこも、すべて、まぶしく光っている白い雪ばかりだった。そして、何等の音も、何等の叫びも聞えなかった。ばりばり雪を踏み砕いて歩く兵士の靴音は、空に呑まれるように消えて行った。
 彼等は、早朝から雪の曠野《こうや》を歩いているのであった。彼等は、昼に、パンと乾麺麭《かんめんぽう》をかじり、雪を食ってのどを湿した。
 どちらへ行けばイイシに達しられるか!
 右手向うの小高い丘の上から、銃を片手に提げ、片手に剣鞘を握って、斥候が馳《は》せ下《お》りて来た。彼は、銃が重くって、手が伸びているようだった。そして、雪の上にそれを引きずりながら、馳せていた。松木だった。
 彼は、息を切らし、中隊長の傍まで来ると、引きずっていた銃を如何にも重そうに持ち上げて、「捧げ銃」をした。彼の手は凍って、思う通りに利かなかった。銃は、真直に、形正しく、鼻のさきへ持ち上げることが出来なかった。
 中隊長は、不満げに、彼を睨《にら》んだ。「も一度。そんな捧《ささ》げ銃《つつ》があるか!」その眼は、そう云っているようだった。
 松木は、息切れがして、暫らくものを云うことが出来なかった。鼻孔から、喉頭が、マラソン競走をしたあとのように、乾燥し、硬《こわ》ばりついている。彼は唾液《つばき》を出して、のどを湿そうとしたが、その唾液が出てきなかった。雪の上に倒れて休みたかった。
「どうしたんだ?」
 中隊長は腹立たしげに眼に角立てた。
「道が、どうしても、」松木は息切れがして、つづけてものを云うことが出来なかった。「どうしても、分らないんであります。」
「露助は、どうしてるんだ。」
「はい。スメターニンは、」また息切れがした。「雪で見当がつかんというのであります。」
「仕様がない奴だ。大きな河があって、河の向うに、樅《もみ》の林がある。そういうところは見つからんか、そこへ出りゃ、すぐイイシへ行けるんだ。」
「はい。」
「露助にやかましく云って案内さして見ろ!」
 中隊長は歩きながら、腹立たしげに、がみがみ云った。「場合によっては銃剣をさしつけてもかまわん。あいつが、パルチザンと策応して、わざと道を迷わしとるのかもしれん。それをよく監視せにゃいかんぞ!」
「はい。」
 松木は、若《も》し交代さして貰えるかと、ひそかにそんなことをあてにして、暫らく中隊長の傍を並んで歩いていた。
 彼は蒼くなって居た。身体中の筋肉が、ぶちのめされるように疲れている。頭がぼんやりして耳が鳴る。
 だが、中隊長は、彼を休ませようとはしなかった。
「おい行くんだ。もっとよく探して見ろ!」
 ふらふら歩いていた松木は、疲れた老馬が鞭《むち》のために、最後の力を搾るように、また、銃を引きずって、向うへ馳《は》せ出《だ》した。
「おい、松木!」中隊長は呼び止めた。「道を探すだけでなしに、パルチザンがいやしないか、家があるか、鉄道が見えるか、よく気をつけてやるんだぞ。」
「はい。」
 斥候は、やがて、丘を登って、それから向うの谷かげに消えてしまった。そこには武石と、道案内のスメターニンとが彼を待っていた。
 松木と武石とは、朝、本隊を出発して以来つづけて斥候に出されているのであった。
 中隊長は、不機嫌に、二人に怒声をあびせかけた。
「中隊がイイシ守備に行かなけりゃならんのは誰れのためだと思うんだ! お前等、二人が脱柵《だっさく》して女のところで遊びよったせいじゃないか!」彼は、心から怒っているような眼で二人をにらみつけた。「中隊長は、皆んなを危険なところへは曝《さら》しとうない。中隊が可愛いいんだ。それを、危険なところへ行かなけりゃならんようにしたのは、貴様等二人だぞ! 軍人にあるまじきことだ!」
 そして二人は骨の折れる、危険な勤務につかせられた。
 松木と武石とは、雪の深い道を中隊から十町ばかりさきに出て歩いた。そして見た状勢を、馳《か》け足《あし》で、うしろへ引っかえして報告した。報告がすむと、また前に出て行くことを命じられた。雪は深く、そしてまぶしかった。二人は常に、前方と左右とに眼を配って行かなければならなかった。報告に、息せき息せき引っ
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