は笑ってすませるような競争者がなかった。
彼は、朗らかな、張りのある声で、「いらっしゃい、どうぞ!」と女から呼びかけられたこともなかった。
若《も》しそれが恋とよばれるならば、彼の恋は不如意な恋だった。彼は、丘を登りしなに、必ず、パンか、乾麺麭《かんめんぽう》か、砂糖かを新聞紙に包んで持っていた。それは兵卒に配給すべきものの一部をこっそり取っておいたものだった。彼は、それを持って丘を登り、そして丘を向うへ下った。
三十分ほどたつと、彼は手ぶらで、悄然《しょうぜん》と反対の方から丘を登り、それから、兵営へ丘を下って帰って来た。ほかの者たちは、まだ、ぺーチカを焚いている暖かい部屋で、胸をときめかしている時分だった。
「ああ、もうこれでやめよう!」彼は、ぐったり雪の上にへたばりそうだった。「あほらしい。」
丘のふもとに、雪に埋れた広い街道がある。雪は橇《そり》や靴に踏みつけられて、固く凍っている。そこへ行くまでに、聯隊《れんたい》の鉄条網が張りめぐらされてあった。彼は、毎晩、その下をくぐりぬけ、氷で辷《すべ》りそうな道を横切って、ある窓の下に立ったのであった。
「ガーリヤ!」
彼は
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