ら逃出し得るならば、彼は、一分間と雖《いえど》も我慢していたくはなかった。――僅かの間でもいい、兵営の外に出たい、情味のある家庭をのぞきたい。そういう慾求を持って、彼は、雪の坂道を攀じ登った。
 丘の上には、リーザの家があった。彼はそこの玄関に立った。
 扉には、隙間風が吹きこまないように、目貼《めば》りがしてあった。彼は、ポケットから手を出して、その扉をコツコツ叩いた。
「|今晩は《ズラシテ》。」
 屋内ではぺーチカを焚《た》き、暖気が充ちている。その気はいが、扉の外から既に感じられた。
「今晩は。」
「どうぞ、いらっしゃい。」
 朗らかで張りのある女の声が扉を通してひびいて来た。
「まあ、ヨシナガサン! いらっしゃい。」
 娘は嬉しそうに、にこにこしながら、手を出した。
 彼は、始め、握手することを知らなかった。それまで、握手をしたことがなかったのだ。何か悪いことをするように、胸がおどおどした。
 が、まもなく、平気になってしまった。
 のみならず、相手がこちらの手を強く握りかえした時には、それは、何を意味しているか、握手と同時に、眼をどう使うと、それはこう云っているのだ。気がすす
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