なかった。
二人が玄関から這入って行った、丁度その時、少佐は勝手口から出て来た。彼は不機嫌に怒って、ぷりぷりしていた。十八貫もある、でっぷり肥った、髯《ひげ》のある男だ。彼の靴は、固い雪を蹴散らした。いっぱいに拡がった鼻の孔《あな》は、凍った空気をかみ殺すように吸いこみ、それから、その代りに、もうもうと蒸気を吐き出した。
彼は、屈辱(!)と憤怒《ふんぬ》に背が焦げそうだった。それを、やっと我慢して押しこらえていた。そして、本部の方へ大股に歩いて行った。……途中で、ふと、彼は、踵《きびす》をかえした。
つい、今さっきまで、松木と武石とが立っていた窓の下へ少佐は歩みよった。彼は、がん丈で、せいが高かった。つまさきで立ち上らずに、カーテンの隙間から部屋の中が見えた。
そこには、二人の一等卒が、正宗の四合|壜《びん》を立てらして、テーブルに向い合っていた。ガーリヤは、少し上気したような顔をして喋《しゃべ》っている。白い歯がちらちらした。薄荷《はっか》のようにひりひりする唇が微笑している。
彼は、嫉妬《しっと》と憤怒が胸に爆発した。大隊を指揮する、取っておきのどら声で怒なりつけようとした。その声は、のどの最上部にまで、ぐうぐう押し上げて来た。
が、彼は、必死の努力で、やっとそれを押しこらえた。そして、前よりも二倍位い大股に、聯隊《れんたい》へとんで帰った。
「女のところで酒をのむなんて、全くけしからん奴だ!」
営門で捧《ささ》げ銃《つつ》をした歩哨《ほしょう》は何か怒声をあびせかけられた。
衛兵司令は、大隊長が鞭《むち》で殴りに来やしないか、そのひどい見幕を見て、こんなことを心配した位いだった。
「副官!」
彼は、部屋に這入るといきなり怒鳴った。
「副官!」
副官が這入って来ると、彼は、刀もはずさず、椅子に腰を落して、荒い鼻息をしながら、
「速刻不時点呼。すぐだ、すぐやってくれ!」
「はい。」
「それから、炊事場へ露西亜人《ロシアじん》をよせつけることはならん。残飯は一粒と雖《いえど》も、やることは絶対にならん。厳禁してくれ。」
「はい。」
「よし、それだけだ。」
副官が、命令を達するために、次の部屋へ引き下ると、彼はまた叫んだ。
「副官!」
「はい。」
「この点呼に、もしもおくれる者があったら、その中隊を、第一中隊の代りに、イイシ守備に行かせること、そうしてくれ、罰としてここには置かない。そうするんだ。――すぐだ、速刻やってくれ!」
八
一隊の兵士が雪の中を黙々として歩いて行った。疲れて元気がなかった。雪に落ちこむ大きな防寒靴が、如何にも重く、邪魔物のように感じられた。
雪は、時々、彼等の脛《すね》にまで達した。すべての者が憂欝《ゆううつ》と不安に襲われていた。中隊長の顔には、焦慮の色が表われている。
草原も、道も、河も悉《ことごと》く雪に蔽われていた。
枝に雪をいただいて、それが丁度、枝に雪がなっているように見える枯木が、五六本ずつ所々に散見する外、あたりには何物も見えなかった。どこもかしこも、すべて、まぶしく光っている白い雪ばかりだった。そして、何等の音も、何等の叫びも聞えなかった。ばりばり雪を踏み砕いて歩く兵士の靴音は、空に呑まれるように消えて行った。
彼等は、早朝から雪の曠野《こうや》を歩いているのであった。彼等は、昼に、パンと乾麺麭《かんめんぽう》をかじり、雪を食ってのどを湿した。
どちらへ行けばイイシに達しられるか!
右手向うの小高い丘の上から、銃を片手に提げ、片手に剣鞘を握って、斥候が馳《は》せ下《お》りて来た。彼は、銃が重くって、手が伸びているようだった。そして、雪の上にそれを引きずりながら、馳せていた。松木だった。
彼は、息を切らし、中隊長の傍まで来ると、引きずっていた銃を如何にも重そうに持ち上げて、「捧げ銃」をした。彼の手は凍って、思う通りに利かなかった。銃は、真直に、形正しく、鼻のさきへ持ち上げることが出来なかった。
中隊長は、不満げに、彼を睨《にら》んだ。「も一度。そんな捧《ささ》げ銃《つつ》があるか!」その眼は、そう云っているようだった。
松木は、息切れがして、暫らくものを云うことが出来なかった。鼻孔から、喉頭が、マラソン競走をしたあとのように、乾燥し、硬《こわ》ばりついている。彼は唾液《つばき》を出して、のどを湿そうとしたが、その唾液が出てきなかった。雪の上に倒れて休みたかった。
「どうしたんだ?」
中隊長は腹立たしげに眼に角立てた。
「道が、どうしても、」松木は息切れがして、つづけてものを云うことが出来なかった。「どうしても、分らないんであります。」
「露助は、どうしてるんだ。」
「はい。スメターニンは、」また息切れがした。「雪で見当がつかんというので
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