性慾の××になったのだ。兵卒達はそういうことすら知らなかった。
何故、シベリアへ来なければならなかったか。それは、だれによこされたのか? そういうことは、勿論、雲の上にかくれて彼等、には分らなかった。
われわれは、シベリアへ来たくなかったのだ。むりやりに来させられたのだ。――それすら、彼等は、今、殆んど忘れかけていた。
彼等の思っていることは、死にたくない。どうにかして雪の中から逃がれて、生きていたい。ただそればかりであった。
雪の中へ来なければならなくせしめたものは、松木と武石とだ。
そして、道を踏み迷わせたのも松木と武石とだ。――彼等は、そんな風に思っていた。それより上に、彼等に魔の手が強く働いていることは、兵士達には分らなかった。
彼等が、いくらあせっても、行くさきにあるものは雪ばかりだった。彼等の四肢は麻痺《まひ》してきだした。意識が遠くなりかけた。破れ小屋でもいい、それを見つけて一夜を明かしたい!
だが、どこまで行っても雪ばかりだ。……
最初に倒れたのは、松木だった。それから武石だった。
松木は、意識がぼっとして来たのは、まだ知っていた。だが、まもなく頭がくらくらして前後が分らなくなった。そして眠るように、意識は失われてしまった。
彼の四肢は凍った。そして、やがて、身体全体が固く棒のように硬ばって動かなくなった。
……雪が降った。
白い曠野《こうや》に、散り散りに横たわっている黄色の肉体は、埋められて行った。雪は降った上に降り積った。倒れた兵士は、雪に蔽《おお》われ、暫らくするうちに、背嚢《はいのう》も、靴も、軍帽も、すべて雪の下にかくれて、彼等が横たわっている痕跡《こんせき》は、すっかり分らなくなってしまった。
雪は、なお、降りつづいた。……
一〇
春が来た。
太陽が雲間からにこにこかがやきだした。枯木にかかっていた雪はいつのまにか落ちてしまった。雀の群が灌木《かんぼく》の間をにぎやかに囀《さえず》り、嬉々としてとびまわった。
鉄橋を渡って行く軍用列車の轟《とどろ》きまでが、のびのびとしてきたようだ。
積っていた雪は解け、雨垂れが、絶えず、快い音をたてて樋《とい》を流れる。
吉永の中隊は、イイシに分遣されていた。丘の上の木造の建物を占領して、そこにいる。兵舎の樋から落ちた水は、枯れた芝生の間をくぐって、谷間
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