尉に鼓膜を叩き破られた兄を持っていた。何等償われることなしに兄は帰休になって、今は小作をやっている。入営前大阪へ出て、金をかけて兄は速記術を習得したのであった。それを兄は、耳が聞えなくなったため放棄しなければならなかった。上等兵は、ここで自分までも上官の命令に従わなくって不具者にされるか、或は弾丸《たま》で負傷するか、殺されるか、――したならば、年がよってなお山伐りをして暮しを立てている親爺がどんなにがっかりするだろうか、そのことを思った。――老衰した親爺の顔が見えるような気がした。
けれども彼は、煙の中を逃げ出して来る短衣やキャラコも、子供や親があることを考えた。彼等も、耕すか、家畜を飼うかして、口を糊《のり》しているのだ。上等兵はそういうことを考えた。――同様に悲しむ親や子供を持っているのだ。
こんなことをして彼等を撃ち、家を焼いたところで、自分には何にも利益がありやしないのだ。
流れて来る煙に巻かれながら、また、百姓や女や、老人達がやって来た。
上等兵は、機関銃のねらいをきめる役目をしていた。彼は、機関銃のつつさきを最大限度に空の方へねじ向けた。
弾丸は、坂を馳せ登ってくる百姓や、女の頭の上をとびぬけ出した。
「撃てッ、パルチザンが逃げ出して来るじゃないか、撃てッ!」
包囲線を見張っている将校は呶鳴りたてた。
兵士の銃口からは、つづけて弾丸が唸《うな》り出た。
「撃てッ! パルチザンがいッくらでもこっちへ逃げ出して来るじゃないか。うてッ! うてッ!」
兵士は撃った、あまりにはげしい射撃に銃身が熱くなった。だが弾丸は、悉く、一里もさきの空へ向ってとび上った。そこで人を殺す威力を失って遙か向うの草原に落下した。機関銃ばかりでなく、そこらの歩兵銃も空の方へそのつつさきを向けていたのだ。
百姓は、逃げ口が見つかったのを喜んで麓の方へ押しよせてきた。
彼等は、物をくすねそこねた泥棒のように頸をちぢめてこそこそ周囲を盗み見ながら兵士の横を走せぬけた。
「早く行け!」
栗本が聞き覚えのロシア語で云った。百姓は、道のない急な山を、よじ登った。
「撃てッ! 撃てッ! パルチザンを鏖《みなごろし》にしてしまうんだ! うてッ! うたんか!」
士官は焦躁にかられだして兵士を呶鳴りつけた。
「ハイ、うちます。」
また、弾丸が空へ向って呻《うな》り出た。
「うてッ
前へ
次へ
全17ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
黒島 伝治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング