かったのだ。ただ軍刀に接吻しただけで、また元の鞘《さや》に納めた。が、こんなことはおまえに話す必要はなかったんだ。それに今ああいう争闘の話をしながら、自分をいい子に見せようと思って、少しはごまかしもあるようだ。しかしそれはどうだってかまわない。ほんとに人間の心の間諜《かんちょう》なんてものが、みんなどこかへ消えてなくなりゃあいいんだ! さあ、これがおれとカテリーナ・イワーノヴナとのあいだにあった『事件』の全部なんだよ。今ではこれを知っているのはイワンと、それにおまえだけなんだ」
ドミトリイ・フョードロヴィッチは立ち上がると、興奮しながら一、二歩足を踏み出した。そしてハンカチを取り出して額の汗を拭《ぬぐ》った。それから再び腰をおろしたが、それは前に坐っていたところでなく、反対側の壁ぎわの床几《しょうぎ》であった。だからアリョーシャは、すっかり坐りなおして兄のほうを向かなければならなかった。
五 熱烈なる心の懺悔――『まっさかさま』
「ではこれで」とアリョーシャが言った。「僕もこの話の前半を知ったわけなんです」
「ね、前半だけはおまえにもわかったわけだ。それはただの戯曲《ドラマ》で、あちらで上演ずみだ。後半は悲劇で、これから当地で演じられようとしているのさ」
「その後半については、これまで少しも僕にわかっていないんです」とアリョーシャが言った。
「じゃあ、おれはどうだい? おれにはわかってるとでも言うのかい?」
「ちょっと待って、兄さん、ここに一つ大切なことばがあるんです。聞かせてください、いったい兄さんは許婚《いいなずけ》なんですか、今でも許婚なんですか?」
「おれが許婚になったのはすぐじゃない、あの事件の後、三月たってからだ。あのことがあったすぐあくる日おれは自分で自分に言って聞かせた――この事件はすっかりこれでおしまいだ、けっして続きなんかないとね、結婚の申しこみに出かけるなんて、卑劣だとおれは思ったのだ。あの女はまたあの女で、その後六週間もその町に滞在していたのに、一言半句の便りもよこさなかったのだ。もっともあとにもさきにもただ一度きり、あの女がおれを訪問した、そのあくる日のことだが、あの家の女中が、こっそりおれのところへ来て、何も言わずに紙包みを一つ置いて行ったのだ。その包みには何々様と当て名が書いてある。あけて見ると、五千ルーブルの手形のつり銭なんだ。入用だったのはみんなで四千五百ルーブルだけれど、五千ルーブルの手形を売るのには二百ルーブルあまり損をしなければならなかったのだ。よくは覚えていないが、おれの手もとへ返してよこしたのは、みんなで二百六十ルーブルくらいのものだった。しかも金だけで一片の手紙もなければ一言の説明もしてないのだ。おれは包みの中に、何かちょっと鉛筆で印しでもつけてないかと思って、捜してみたが――なんにもない! そこでしようことなしに、おれはその残金でまた遊蕩を始めたものだからとうとう新任の少佐も余儀なくおれに譴責《けんせき》を食わしたほどだ。とにかく、中佐は無事に官金を引き渡したので、みんなはびっくりしてしまったのさ。だって、そんな金がそっくり中佐の手もとにあろうとは、誰ひとり予想もしなかったからなあ。引き渡しはしたが、どっと病みついて、三週間ばかり床についていたが、突然、脳の軟化症を起こして、五日目に亡くなってしまった。まだ退役の辞令を受けていなかったため、軍葬の礼をもって葬《ほうむ》られた。カテリーナ・イワーノヴナは姉や伯母といっしょに、父の葬《とむら》いが済み次第、十日ばかりして、モスクワへ立ってしまった。ところが、その出発の前、と言っても、その当日なんだが(おれは会いもしなければ、見送りにも行かなかった)、おれはささやかな封書を受け取ったんだ。青い透し入りの紙に鉛筆でたった一行『いずれお便りをします、お待ちくださいませ。K』とそれだけ書いてあったよ。
これからはもっと簡単に説明しよう。モスクワへ行くと、あの人たちの事情は電光のような速度と、アラビヤンナイトのような思いがけなさでもって、がらりと一変してしまったのだ。あの女のおもな近親だった将軍夫人が不意に、最も近しい相続者に当たる二人の姪《めい》を、両方とも一時に亡くしてしまったのだ。――どちらも天然痘《てんねんとう》で同じ週に死んだのだ。すっかり取り乱してしまった夫人は、親身の娘のように、カーチャを喜び迎え、まるで救いの星でも見つけたように彼女に取りすがって、さっそくあの女の名義に遺言状を書き換えてしまったのだ。けれどそれはさきのためで、当座の手当てとしてじかに八万ルーブルわたして、さあこれはおまえの持参金だから、どうなりとも好きなようにお使いと言ったとさ。実際ヒステリイ性の婦人だったよ、おれはその後モスクワへ行って自分の眼で
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