百足が、意地の悪い毒虫め、ちくりとおれの心臓を刺したんだよ。わかるかい? おれはじろりと相手を一瞥《いちべつ》した。おまえはあの女《ひと》を見たかい? 美人だろう。だがあの時の美しさはそんな風の美しさではなかったのだ。あの女《ひと》が美しかったのは、あの女《ひと》がこのうえもなく高潔であるに引き替え、おれは一個の卑劣漢にすぎなかったからだ。あの女《ひと》が父の犠牲《ぎせい》として、寛容の絶頂にあるに引き替え、おれは一匹の南京虫《ナンキンむし》に等しいからなんだ。ところが、その卑劣漢で南京虫にすぎないおれのために、あの女《ひと》は身も心もいっさいをあげて、生殺与奪の権を握られているのだ。追いつめられてしまっているのだ。おれはあからさまに言うが、この考えは――この毒虫の考えは、おれの心臓をしっかりとつかんでしまって悩ましさのために心臓が溶けて流れ出さないばかりだった。もはやなんの争いもなさそうだった。南京虫か毒蜘蛛《どくぐも》のように、情け容赦もなく行動に移るばかりだ……。おれは息が止まる思いだった。ところがまた、これをどこまでも高潔な方法でかたづけて、誰にもそれを知らさない、いや誰も知ることができないように、すぐあくる日にでも結婚の申しこみに乗りこんでもよかったわけだ。なぜって、おれは卑しい欲望を持った人間であるけれど、心は潔白なんだからさ。ところが突然その瞬間に、誰やらおれの耳元でささやくやつがあったんだよ。『だが、あす結婚の申しこみに行ったとしても、あの女《ひと》はおまえの前へ顔出しもしないで、御者に言いつけておまえを邸から突き出してしまうだろうぜ、町じゅうに触れ回すがいい、おまえさんなぞちっともこわくないから、と言ったらどうだろう!』おれはちらと令嬢を眺めた。おれの心の声は嘘をつかなかった。たしかにそうだ、きっとそうするに決まっている。おれの襟髪をつかんで放り出すということは、もう今からその顔色でちゃんと読めるのだ。そこで、おれの心の中にはまたもや毒念が湧き返って、卑劣きわまる、豚か商人のような一幕が演じてみたくなったのだ。つまり、あざけるような眼つきでその女を見やりながら、相手が自分の前に突っ立っているあいだに、商人でもなければ使わないような口上で、いきなり女をののしってやりたくなったんだ。
『あの四千ルーブルですって! ありゃあ冗談に言ったのですよ、いったいどうなすったんです! そりゃお嬢さん、あんまり虫がよすぎますぜ。百や二百の金なら、こちらから喜んで差し上げもしましょうが、四千ルーブルといえば、そう楽々おいそれと投げ出せる金じゃありませんからね。ほんとにむだな御足労でしたよ』とさ、しかし、こんなことを言ったら、もちろん、おれは何もかもなくしてしまっただろうし、令嬢は逃げ出してしまったに違いない。が、その代わり、思いきり悪がきいて腹いせにもなって、いっさいを償って余りがあるだろう。一生涯後悔の念に苦しむかもしれないが、とにかく、今はこの手品がやってみたくてたまらないのだ! おまえは本当にしないだろうが、こんな瞬間におれが相手の女を憎悪の念をもって眺めるなんてことは、どんな女に対してもけっしてありはしなかった。ところが誓って言うが、その時ばかりは、三秒か五秒のあいだ、恐ろしい憎悪をもってあの女を見つめたのだよ。しかしその憎悪が恋、気ちがいじみた恋と、間一髪をいれないものだった! おれは窓に近寄って、凍《い》てたガラスに額を押し当てた。氷がまるで火かなんぞのように額を焼いたのを覚えている。心配するなよ、長く待たせはしなかったよ。おれはくるりと向きを変えるとテーブルに近寄って、引き出しをあけて、五千ルーブルの五分利つき無記名手形を取り出した(それはフランス語の辞書にはさんであった)。それから黙ったまま女に見せたうえ、たたんで渡した。そして自分で玄関へ出る扉をあけると、一足さがってうやうやしく腰をかがめて、相手の胸にしみとおるような会釈をしたものだ。本当のことだよ! あの女は全身でぎくりとおののいて、一秒間おれをじっと見つめながら、ひどく青ざめて、ほんとに卓布のような顔をしていたが、いきなり、何も言わずに、突発的ではあったが、ほんとに物柔らかに、静かに深くおれの足もとへ身をかがめて、額が地につくほどの、女学生式ではなく純ロシア式のお辞儀をしたんだ! そして急に飛び上がると、駆け出してしまったんだ。あの女が飛び出した時、おれはちょうど軍刀を吊《つ》っていたので、それを引き抜いてその場で自殺をしようと思ったんだよ。何のためか自分でもとんとわからない、いうまでもなくばかげきったことではあったが、おそらく嬉しさのあまりに違いない。おまえにはわかるかどうか知らんが、ある種の歓喜のためには、自殺もしかねないものだよ。だが、おれは自殺しな
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