なく、むしろそれをおもしろがっていたが、それでも一生懸命にすべての事実を否定し続けた。彼がこの捨て子を引き取ったということは、町の人の気に入った。後になって、フョードル・パーヴロヴィッチはこの孤児のために、苗字まで作ってやった。それは母親のあだ名の『悪臭ある女』から取って、スメルジャコフとしたのである。このスメルジャコフが成人して、フョードル・パーヴロヴィッチの第二の下男として、この物語の初めのころ、老僕グリゴリイ夫婦と共に、傍屋《はなれ》に住んでいたのである。彼は料理番として使われていた。この男についても、何かといろいろ述べておく必要が大いにあるのだが、こんなありふれた下男どものことに、あまり長く読者の注意を引き止めるのもいかがと思われるから、スメルジャコフに関しては、このさき物語の進展につれて、おのずから明瞭になることを期待して、ひとまず前の続きに移ることにしよう。

   三 熱烈なる心の懺悔――詩

 アリョーシャは、父が修道院からの帰りぎわに馬車の中から大声をあげて命令したことばを聞いて、しばらくのあいだひどく当惑して、その場に立ちつくした。しかし別段、棒立ちに立ちすくんだわけではない。そんなことは彼にはありえなかった。それどころか、恐ろしく心配はしながらも、彼はさっそく修道院長の勝手口へ行って、父が上でしでかした一部始終を聞き取ったのであった。それから彼は、今自分を悩ましている問題も道々なんとか解決がつくだろうという望みをいだきながら、ともかく、町をさして急いだのであった。前もって断わっておくが、『枕も蒲団も引っかついで』家へ帰って来いとの父の命令もわめき声も、彼にはいっこう恐ろしくはなかった。ああしてぎょうさんに聞こえよがしにわめき立てて帰宅せよとの命令は、ただ単にいわば『羽目をはずした』出まかせの、むしろその場の潤色に用いられたものにすぎないことを彼は百も承知していたのである。たとえばつい最近、この町のさる商人が、自分の命名日にあまり飲み過ぎたため、もうウォトカはよしなさいと言われたのに腹を立てたあげく、客の前をもはばからず、突然、自分自身の食器を打ち砕いたり、自分や妻君の着物を引き裂いたり、家具や、果ては屋内のガラスまでたたきこわしたものだが、これも同じく潤色のためで、今日父が演じたのも、これと同巧異曲の一幕であった。もちろんその食らい酔った商人もあくる日はすっかり酔いがさめて、自分のこわした碗や皿を惜しがったものだ。だからアリョーシャは、老父も明日になったら自分を修道院へ返してくれる、いや今日にも返してくれるかもしれぬことを見抜いていた。それに彼は父が、他の者ならともかく、自分を侮辱《ぶじょく》しようなどと考えるはずがないと、固く信じていた。彼は世の中に誰ひとり、自分を侮辱しようとするものはない、否、侮辱しようとする者がないばかりか、侮辱しうる者がないと信じていた。これは理屈なしに断然、彼の心に決定している公理であった。この意味で彼は、なんらの動揺もなしに前進することができたのである。
 しかしこの時、彼の心中には、全く種類を異にしたある別の疑懼《ぎく》の念が蠢動《しゅんどう》していた。しかも自分ではっきりとそれを把握することができないために、それはいっそう悩ましく感ぜられるのであった。それはまさしく女性に対する恐怖であった。つまりさきほどホフラーコワ夫人から渡された手紙で、何か用事があるからぜひ来てもらいたいと、しつこく頼んでよこした、かのカテリーナ・イワーノヴナに対する恐怖であった。この要求と、そこにぜひ行かねばならぬことが、たちまち彼の胸に何か妙に悩ましい感じを起こさせたのである。そして修道院内で相次いで起こったいろいろの事件や、今また院長のもとで演ぜられた醜態などにもかかわらず、この感じは午前中を通して、しだいしだいに悩ましさを増して彼の心を疼《うず》かせていったのである。
 彼が恐れたのは、カテリーナ・イワーノヴナが何を言いだすか、またそれに対してこっちからなんと答えたものか、そんなことがわからないためではなかった。また一般的に女としての彼女を恐れたわけでもなかった。いうまでもなく、彼は女というものをあまり知らなかったが、しかしそうは言っても、ほんの幼少のころから、修道院へはいるすぐ前まで、ずっと女のあいだばかりで暮らしているのだ。彼が恐れていたのはまさしくこの、カテリーナ・イワーノヴナという女なのである。そもそもはじめて会ったその時からして、彼にはこの女が恐ろしかったのである。もっとも、この女に会ったのはほんの一度か二度、あるいは三度くらいなものである。しかしいつか何かの拍子で、二言、三言ことばをかわしたことがあった。彼女の姿は、美しく誇らかで威厳の備わった娘として彼の記憶に残っていた。しかし彼
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