てやがて一同はその場を離れて先へ歩を進めた。その後フョードル・パーヴロヴィッチは、自分もそのときみんなといっしょに立ち去ったことを断固として強調したが、はたしてその通りであったか否か、現に誰ひとり確かなことを知っている者もなければ、かつて知っていた者もないのである。しかしそれから五、六か月もすると、リザヴェータが大腹をかかえて歩いているということを、町じゅうの者がひどく憤慨して取りざたし始めた。そしていったい誰が犯した罪なのか、はずかしめを加えたのは何者かと、さまざまに問いただしたり、穿鑿《せんさく》したりした。ところがちょうどそのとき、その凌辱者《りょうじょくしゃ》はほかならぬフョードル・パーヴロヴィッチだという奇怪なうわさが、ぱっと町じゅうに広がった。このうわさはいったいどこから出たものであろう? 例の酔っぱらいの一行のうち、ちょうどその時この町に残っていたのは、たった一人の仲間で、それも家庭を営み、年ごろの娘を幾人も持っているような、相当の年配で分別ざかりの五等官であるから、たとえ何かそこに根拠があったとしても、けっしてそんなことを言い触らすはずがなかった。自余の五人ばかりの仲間は当時それぞれ町を引きあげてしまっていた。しかしその風説はまがうかたなくフョードル・パーヴロヴィッチを目当てに流布されたもので、いまだにそう信じられているのである。むろん、当人はそのことをたいして弁解もしなかった。彼はそんじょそこらの商人や町人どもを相手に取ることを潔しとしなかった。当時の彼は鼻息が荒くて、自分が一生懸命お太鼓を持っている官吏や貴族の仲間とでなければ、口もきかないありさまであったからである。グリゴリイが全力をあげて主人のために敢然として立ったのは、このときである。彼はそうした誹謗《ひぼう》に対して主人を弁護したばかりか、主人のために喧嘩口論までして、多くの人の意見をくつがえした。『あの下種《げす》女の自業自得だ』と、彼は断固として言った。そして当の相手は『あのねじ釘のカルプ』(それは当時、町じゅう誰知らぬ者もない恐ろしいお尋ね者で、県の監獄を脱走して、この町に身を潜めていた男である)以外の誰でもないと突張ったものである。この推測はいかにもまことしやかに思われた。人々はこのカルプのことを覚えていた。ちょうどその秋の初めごろまさしくあの夜の前後に、彼が町を徘徊《はいかい》して三人ばかり追いはぎを働いた事実はまだ人の記億に新しかったからである。しかしこうした事件や風説は、哀れな信心気ちがいに対する町の人たち一般の同情を殺《そ》がなかったばかりか、人々はますます彼女を大事にかけて保護するようになった。ある裕福な商家の孀《やもめ》でコンドラーチエワという女は、まだ四月の末ごろからリザヴェータを自分の家へ引き取って、お産の済むまでは外へ出さないように取り計らったほどである。家人は夜の目も寝ずに彼女を見張っていたが、結局その苦心のかいもなく、リザヴェータは最後の日の夕方、突然、コンドラーチエワの家をこっそり抜け出して、フョードル・パーヴロヴィッチの家の庭に姿を現わしたのである。ただならぬ体の彼女がどうして高い堅固な庭の塀を乗り越えたかということは、一つの謎《なぞ》として残っている。ある者は誰か人に助けられたのだとも言うし、またある者は何か精霊《もののけ》が運び入れたのだと言った。が、何より確からしいのは、それがきわめてむずかしいことであるけれど、自然な方法で行なわれたという説である。つまりリザヴェータはよその菜園へはいって寝るために、籬を越すことがじょうずであったから、フョードル・パーヴロヴィッチの家の塀へもどうにかしてはいあがって、身体《からだ》に障《さわ》るとは知りながら、妊婦の身をも顧みず、そこから飛びおりたものであろう。グリゴリイはマルファ・イグナーチエヴナのもとへ駆けつけると、彼女をリザヴェータの介抱にやり、自分はちょうどおりよく近所に住んでいる年寄りの産婆を迎えに飛び出して行った。赤ん坊は助かったが、リザヴェータは夜の引き明けに死んでしまった。グリゴリイは赤ん坊を抱き上げて家へ連れ戻ると、妻を坐らせて、その乳房へ押しつけるようにして、赤ん坊を彼女の膝へ載せた。『神の子だよ――孤児ちゅうもんは、みんなの親類だが、おいらにとっちゃあ、ましてのことじゃ。こりゃあ家の赤ん坊がおいらに授けてくれたのに違えねえだが、それにしてもこの子は、悪魔の息子と天使のあいだにできたもんだぞ。育ててやるがええだ、もうこれからさきゃ泣くでねえだぞ』そこでマルファ・イグナーチエヴナはその子供を育てることになった。洗礼を授けてパーヴェルと命名されたが、父称は誰いうとなく、フョードロヴィッチと呼ばれるようになった。フョードル・パーヴロヴィッチはなんら抗議を唱えるでも
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