の心を悩ましたものはその美貌ではなく、何か他のことであった。そもそもこの恐怖の本体をつかむことができないために、いっそう彼の心中に恐怖が募ってゆくのであった。この娘の目的が高潔なものに違いないことは、彼もよく知っていた。彼女は自分に対してすでに罪を犯した兄ドミトリイを救おうと、一心になっている、しかもそれはひたすら寛大な心からそうしているのである。ところが、今それをのみこんでいるうえに、そうした美しい寛大な気持に対して敬意をいだきながらも、彼はその女の家に近づくにつれて、背筋をぞっと寒けが走るように感じた。
彼の想像では、その女と非常に親密なあいだがらの兄イワン・フョードロヴィッチも、今は彼女の家へ来ていなさそうであった。兄イワン・フョードロヴィッチは今ごろは父といっしょにいるに違いなかった。ドミトリイが来ていないことはいっそう確実であった。なぜか彼にはそういう予感がしたのである。してみると、二人の談合は差し向かいで行なわれることになる。で、彼はこの宿命的な会見をする前に、ドミトリイのところへ駆けつけて、ひとめ会って来たいような気がしてならなかった。そうすれば、この手紙は見せないで、何かちょっと打ち合わせておくこともできる。しかし、兄ドミトリイは、かなり遠方に住んでいるし、やはり今はおそらく留守らしい気がした。一分間ばかりその場にたたずんでいたが、ついに彼はきっぱりと心を決めた。あわただしく習慣的な十字を切ると、すぐに何かにっこり一つほほえんでから、彼は自分にとって恐ろしいその婦人のもとへ敢然として歩き出した。
彼は女の家をよく知っていた。しかし、大通りへ出て広場を通ったりなどしていたら、かなり道程が遠くなるのであった。小さい町のくせに、家がまばらに建っているので町内の距離はいいかげん大きいのである。それに父親も彼を待っていて、ことによると、まだ例の言いつけを忘れないで、またしても気まぐれなことを言いださぬとも限らないから、彼方へも此方へも間に合うようにするにはずいぶん急がなくてならない。かれこれ思い巡らしたあげく、彼は裏道を通って道程を短縮しようと心に決めた。彼は町内のそうした抜け道を五本の指のようによく知っていた。裏道といえば荒れ果てた垣根に沿って、ほとんど道でない所へ通じているので、どうかすると、よその籬《まがき》を踏み越えたり、よその庭を突き抜けたりしなければならない。もっとも、よそといったころで、みんな彼を知っているので、誰でも彼に向かって挨拶《あいさつ》をした。こういう道を通って行きさえすれば大通りへ出るのに道程が半分くらい近くなる。一か所、父の家のすぐそばを通り過ぎなければならなかった。それは父の家の庭と境を接している隣家の庭の脇であった。その庭は、窓が四つあるゆがんで古ぼけた小家に付属していた。その小家の持ち主というのは、娘と二人暮らしの足の萎《な》えた老婆で、この町の町人だということは、アリョーシャもよく知っていた。その娘はかつて都で小間使いをしていて、ついこのあいだまで将軍の邸《やしき》などで暮らしていたのが、一年ばかり前から老母の病気のために家へ帰って派手な着物を見せびらかしていた。しかし、この老婆と娘は貧窮の極に達して、隣同士のよしみによって毎日のようにカラマゾフ家の台所へ、スープやパンをもらいに来るほどになった。マルファ・イグナーチエヴナも、二人に気前よく分けてやっていた。ところが、この娘はスープの無心にまで来るくせに、自分の着物は一枚も売ろうとしなかった。そればかりか、その中の一枚などは、やたらに長い裳裾《もすそ》のついたものであった。アリョーシャはもとより、この最後の事実については、ゆくりなくも、町のことならば何から何まで知っている例のラキーチンから聞かされたのであったが、いうまでもなく、聞くと同時に、すぐにまた忘れてしまった。けれど今、隣家の庭の前まで来たとき、ふっとこの裳裾のことを思い出すと、それまで物思いに沈んで、うなだれていた頭をひょいと振り上げた……と、実に思いもかけぬ人に出くわした。
隣家の庭の籬の向こうから、兄のドミトリイ・フョードロヴィッチが何か踏み台に乗って胸から上を現わしていた。そして、しきりに合図をしながら彼を手招きしているが、明らかに彼は、大声に呼ぶどころか、人に聞かれはしないかとの心配から、口に出してはひと言も物を言わなかった。アリョーシャはすぐに籬のそばへ駆け寄った。
「ああ、おまえのほうからこちらをふり向いてくれてよかった。でなかったら、もう少しでおまえを大声で呼ぶところだったよ」と、さも嬉しそうに、ドミトリイ・フョードロヴィッチはあわただしくささやいた、「さあ、ここへ上がって来いよ! 早く! ああ、ほんとにおまえが来てくれてよかった。おれは今もおまえのことを考
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