、どうやら宗派分裂よりよほど前に描かれたものらしい。その前には燈明がとぼっている。そのかたわらには金色燦然《こんじきさんぜん》たる聖飾をつけた聖像がもう二つ、またそのぐるりには作りものの第一天使《ケルピム》やら陶器の卵やら、『嘆きの聖母』に抱かれた象牙《ぞうげ》製のカトリック式十字架やら、前世紀のイタリアの名画から複製した、舶来の版画やらがあった。こうした優美で高価な版画のほかに、聖徒や殉教者《じゅんきょうしゃ》や僧正などを描いた、どこの定期市でも三カペイカか五カペイカで売っている、きわめて稚拙なロシア出来の石版画が、幾枚も麗々しく掲げてある。また現在や過去のロシアの主教の肖像を石版にしたものも少し掛かっていたが、それはもう別の壁であった。ミウーソフはこういう『繁文褥礼《はんぶんじょくれい》』にさっとひとわたり目を通してから、じっと執拗《しつよう》な凝視を長老に投げた。彼は自分の見解を自負する弱点を持っていた。もっとも、これは彼の五十という年齢を勘定に入れれば、たいてい許すことのできる欠点である。実際、この年配になると、賢い、世慣れた、生活に不自由をしない人は、誰でもだんだん自分というものを尊重するようになる。
そもそも最初の瞬間からして、彼には長老が気に入らなかった。実際、長老の顔にはミウーソフばかりでなく、多くの人の気に入らなそうなところがあった。それは腰の曲がった、非常に足の弱い、背の低い人で、まだやっと六十五にしかならないのに、病弱のため、ずっと――少なくとも十くらいは老《ふ》けて見える。顔はひどく萎《しな》びて小皺《こじわ》に埋もれている。ことに眼の辺がいちばんひどい。薄色の小さな眼はしつこく動いて、まるで輝かしい二つの点のようにぎらぎら光っている。白い髪の毛は顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》のあたりに少々残っているだけで、頤髯《あごひげ》はまばらで楔《くさび》がたをしている。その笑みを浮かべた唇は、二本の紐かなんぞのように細い。鼻は長いというよりは、鳥の嘴《くちばし》のように鋭くとがっている。
『どの点から見ても、意地悪で、高慢ちきな老爺だ』そういう考えがミウーソフの頭を掠《かす》めた。概して彼は非常に不機嫌であった。
時計が打ち出して話のいとぐちをつくった。分銅《ふんどう》のついた安ものの小さな掛け時計が、急調子でかっきり十二時を報じた。
「ちょうどかっきりお約束の時刻でございます」とフョードル・パーヴロヴィッチが叫んだ。「ところが、倅《せがれ》のドミトリイはまだまいりませんので。あれに代わってお詫《わ》び申しますよ、神聖なる長老様! (この『神聖なる長老様』でアリョーシャは、思わずぎくりとした)当のわたくしはいつでもきちょうめんで、一分一秒とたがえたことはございません――正確は王者の礼儀なり、ということをよくわきまえておりますので……」
「だが、少なくとも、あなたは王者ではない」
我慢がならなくて、ミウーソフがすぐこうつぶやいた。
「さよう、全くそのとおりで、王様じゃありませんよ。それになんですよミウーソフさん、わしもそれくらいのことは知っておりますわい。全く! 猊下《げいか》様、わたくしはいつもこんな風に、取ってもつかんときに口をすべらすのでございまして!」どうしたのか一瞬、感慨無量といった調子で、彼はこう叫んだ。「御覧のとおり、わたくしは正真正銘の道化でございます! もう正直に名乗りをあげてしまいます。昔からの悪い癖でございまして! しかし、ときどき取ってもつかんでたらめを言いますのも、当てがあってのことでございますよ。――どっと人を笑わして、愉快な人間になろう、という当てがあるのでございますわい。とかく愉快な人間になるってえことが必要でございますからなあ、そうじゃありませんか? 七年ばかり前に、ある町へ出向いたことがございます。ちょっとした用事がありましてな。そこでわたくしは幾たりかの小商人《こあきんど》と仲間を組んで、警察署長のところへまいりました。それは、ちょっと依頼の筋がありまして、食事に招待しようという寸法だったのでございます。出て来たのを見ますと、その署長というのは肥《こ》えた、薄い髪の、むっつりとした人物で、――つまりこんな場合にいちばん剣呑《けんのん》なしろものなんで。なんしろ、こんな手合いは癇癪《かんしゃく》もちですからなあ、癇癪もちで……。わたくしはそのかたへずかずかと近寄って、世慣れた人間らしい無雑作な調子で、『署長さん、どうかその、われわれのナプラーウニックになっていただきたいものでして』とやったものです。すると、『いったいナプラーウニックとはなんですね?』と、こうなんです。わたくしはもう、その初手の瞬間に、こいつはしくじった、と思いましたよ。まじめくさっ
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