ることがありましたけれど、人の噂にはずいぶんつまらぬことが多いのでございます。杖で人を打たれたなどということはけっして一度もありません」と僧は答えた。「それではちょっと皆さん、お待ちください。ただ今皆さんのおいでを知らせてまいりますから」
「フョードル・パーヴロヴィッチ、これが最後の約束ですよ。いいですか。十分に言行を慎しんでくださいよ。でないと、僕にも考えがありますよ」ミウーソフは急いでもう一度そうささやいた。
「なんでまた、あなたがそうひどく興奮されるのか、とんとわからん」とフョードル・パーヴロヴィッチはからかうように言った。「それとも罪障のほどが恐ろしいんですかい? なんでも長老は相手の眼つきだけで、どんな人物で何の用に来たかということを見抜いてしまうそうですからな、しかし、あなたのようなちゃきちゃきのパリっ児《こ》で自由主義の紳士が、どうしてそんなに坊主どもの思わくを気になさるんでしょう。全く、びっくりしてしまいましたぜ、ほんとに!」
しかし、ミウーソフがこのいやみに応酬する暇もないうちに、一同は中へ招じ入れられた。彼は幾分むしゃくしゃした気色ではいって行った……。
『もう、ちゃんと今からわかってる、おれは癇癪《かんしゃく》を起こして喧嘩をおっぱじめる……かっとなったが最後――自分も自分の思想も卑しめるくらいがおちだ』そういう考えが彼の頭をかすめた。
二 老いたる道化
彼等が部屋の中へはいるのとほとんど同時に、長老が自分の寝室から出て来た。僧房では一行に先立って二人の修道僧が、長老の出て来るのを待ち受けていた。一人は司書で、もう一人はさして年寄りではないが、病身で、人の噂では非常に学識の高い、パイーシイ神父であった。その他にもう一人、片隅に立って待っている若い男があった(この男はそれからあともずっと立ち通しであった)。見たところ二十二くらいの年格好で、普通のフロックコートを着ている。これはどういうわけでか修道院と僧侶団の庇護《ひご》を受けている神学校卒業生で、未来の神学者なのであった。彼はかなり背が高くて、生き生きとした顔に、顴骨《ほおぼね》が広く、聡明らしい注意深い眼は細くて鳶色《とびいろ》をしている。その顔には非常にうやうやしい表情が浮かんでいるが、それはきわめて礼儀にかなったもので、すこしも人にとりいろうとするようなところが見えない。はいって来た客に対しても、彼は挨拶をしなかった。それは自分が人の指揮監督を受ける身分で、対等の人間ではないからと遠慮したのである。
ゾシマ長老は別の道心とアリョーシャに伴われて出て来た。僧たちは立ち上がって、指の先が床に届くほど、きわめてうやうやしく彼に敬礼した。それから長老の祝福を受けると、その手に接吻するのであった、彼らを祝福してから、長老もやはり指が床につくくらい一人一人に会釈を返して、こっちからもいちいち祝福を求めた。こうした礼式はまるで毎日のしきたりの型のようではなく、非常に謹厳にほとんど一種の感激さえ伴っていた。しかしミウーソフにはいっさいのことが、わざとらしい思わせぶりのように見えた。彼はいっしょにはいった仲間の先頭に立っていた。で、よし彼がどんな思想をいだいているにもせよ、ただ礼儀のためとしても(ここではそれが習慣なのだから)、長老のそばへ寄って祝福を受けなければならぬ、手を接吻しないまでも、せめて祝福を乞うくらいのことはしなくてはならない――それは彼が昨夜から考えていたことである。ところが、今こうした僧たちの会釈や接吻を見ると、彼はたちまち決心を翻してしまった。そしてもったいらしくきまじめに、普通世間一般の会釈をすると、そのまま椅子《いす》の方へ退いてしまった。フョードル・パーヴロヴィッチも非常にものものしい丁寧な会釈をしたが、やはり直立不動の姿勢をとっていた。カルガーノフはすっかりまごついてしまって、まるっきりお辞儀もしなかった。長老は祝福のために上げかけた手をおろして、もう一度客に会釈をして着席を乞うた。紅潮がアリョーシャの頬に上った。彼は恥ずかしくてたまらなかった。不吉な予感が事実となって現われ始めたのである。
長老は革ばりの、恐ろしく旧式な造りのマホガニイの長椅子に腰をおろし、二人の僧を除く一同の客を、反対の壁ぎわにある、黒い革のひどくすれた四脚のマホガニイの椅子に、並んで坐《すわ》らせた。二人の僧は両側に、一人は戸のそばに、もう一人は窓ぎわに座を占めた。神学生とアリョーシャと、もう一人の道心とは立ったままであった。僧房全体が非常に狭くて、なんとなく殺風景であった。調度や家具の類は粗末で貧弱な、ただもうなくてはならない品ばかりであった。鉢植えの花が窓の上に二つと、それから部屋の隅にたくさんの聖像が掛けてある――その中の一つは大きな聖母の像で
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