しょう?」
 はたして彼はふざけているのか、それとも実際に感動しているのか、今はどちらとも決定することがむずかしかった。
 長老は眼をあげて彼を眺めながら、微笑を含んで、こう言った。
「どうすればよいかは、自身で疾《と》うから御存じじゃ。あなたには分別は十分にありますでな。飲酒にふけらず、ことばを慎み、女色、別して拝金に溺《おぼ》れてはなりませんぞ。それからあなたの酒場を、皆というわけにいかぬまでも、せめて二つでも三つでもお閉じなされ。が、大事なことは、いちばん大事なことは――嘘をつかぬということですじゃ」
「と申しますと、ディデロートの一件なんでございますか?」
「いや、ディデロートのことというわけではない。肝心なのは、自分自身に嘘をつかぬことじゃ。みずからを欺き、みずからの偽りに耳を傾ける者は、ついには自分の中にも他人の中にも、真実《まこと》を見分けることができぬようになる。したがって、みずからを侮り、他人をないがしろにするに至るのじゃ。何びとをも尊敬せぬとなると、愛することも忘れてしまう。愛がなければ、自然と気を紛らすために、みだらな情欲に溺れて、畜生にも等しい乱行を犯すようなことにもなりますのじゃ。それもこれもみな他人や自分に対する、絶え間のない偽りから起こることですぞ。みずから欺く者は何よりも先にすぐ腹を立てやすい。実際、時としては、腹を立てるのも気持のよいものじゃ。な、そうではありませんかな? そういう人はちゃんと承知しておりますのじゃ、――誰も自分をはずかしめたのではなく、自分で侮辱を思いついて、それに潤色を施すために嘘をついたのだ。一幅の絵に仕上げるために、自分で誇張して、わずかな他人のことばにたてついて、針ほどのことを棒のように言いふらしたのだ、――それをちゃんと承知しておるくせに、われから先に腹を立てる。それもいい気持ちになって、なんとも言えぬ満足を感じるまでに腹を立てるのじゃ。こうして本当の仇敵《きゅうてき》のような心持になってしまうのじゃ……。さあ、立ってお掛けくだされ、どうかお願いですじゃ、それもやはり偽りの所作ではありませぬかな」
「お聖人様! どうぞお手を接吻させてくださいませ」フョードル・パーヴロヴィッチはぴょんぴょんと飛び上がると、長老の痩せこけた手をすばやくちゅっと接吻した。「全く、全くそのとおり、腹を立てるのがいい気持なんでござ
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