で、眠る事が出来ない。この時己は、ワシリといふ人間が、所謂《いはゆる》親の言ふ事を聞かなくなつた後に、どんな事をして牢屋に入れられ、苦役をしたのだらうかといふやうな問題を、まるで忘れてゐた。己の目に映じたワシリは只青年の血気、余ある力量に駆られて自由を求めようとして走つた人間である。併しどこへ向いて走つたのだらう。
 あゝ。どこへ向いて走つたのだらう。
 この時ワシリは囈語《ねごと》に何か囁いた。それが己には溜息のやうに聞えた。そしてあれは誰の事を思つてゐるのだらうかと想像した。己は解く事の出来ない謎を解かうとして、深い物思に沈んだのである。己の頭の上には、暗黒な夢の影が漂つてゐる。
 日は入つた。大地は偉大に、不可測に、悲みを帯びて、物思に沈んでゐる。その上に一団の雲が重げに、黙つて懸かつてゐる。只遠い地平線のあたりには空の狭い一帯が、黄昏《たそがれ》の消え掛かる薄明りに光つてゐる。それから向うの遠い山のずつと先から火が一つ瞬きをしてゐる。あれはなんだらう。疾《と》うに棄てゝ出た故郷の親の家の明りであらうか。己達を、闇の中で待ち受けてゐる墓の鬼火であらうか。
 己は遅くなつてから寐入
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