狭い天幕の絶望的な闇から逃れ出て、遠く/\走つて行く。障礙のない所を吹く風が、己の頭の周囲《まはり》に戦いでゐる。耳には大洋の怒つて叫ぶ旋律が聞える。日が沈んで身の周囲は闇になつて、乗つてゐる船が海の大波に寛《ゆるや》かに揺られる。
 これは己の血が、流浪人の物語を聞いた為めに、湧き立つたのである。己はこんな事を思つた。若しあれだけの事を、牢屋の中に閉ぢ込められてゐる囚人に聞かせたらどうだらうといふのである。己は自分に問うて見る。一体あの話が己にどんな感動を与へたかといふに、己は脱獄の困難や、逃亡者の受けた辛苦と危険とや、流浪人の感ずるといふ、癒やす事の出来ない、陰気な係恋に刺戟せられたのではない。己は只自由といふものゝ詩趣を感じたのである。これはなぜだらう。又今も海や森や、野原が慕はしい、自由が慕はしいと、切に感じてゐるのはなぜだらう。己でさへ海や、森や、野原に呼ばれ、際限のない遠さに誘はれるのであるから、その愈《い》やす事の出来ない、窮極のない係恋の盃に唇を当てた事のある流浪人が、どんな感じをするかといふのは、想像し易い事ではないか。
 ワシリは眠つてゐる。併し己は色々な事を思ふの
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