驍ワでに恋をしてゐたので、目もくらみ耳も鈍くなつてゐて、ペエテルブルク中で知らぬものゝない、此娘の秘密をステパンは知らずにゐた。
 それは伯爵コロトコフの令嬢には、ステパンが結婚の約束をする一年前に、帝のお手が付いたと云ふ一件である。
 式を挙げる日が極まつてからの事である。ステパンはその日の二週間前に伯爵家の別荘に呼ばれて滞留することになつた。別荘はツアルスコエ・セロである。時は五月の暑い日である。ステパンと娘とは花園の中《うち》を散歩して、そこにある菩提樹並木の蔭のベンチに腰を掛けた。その日には、白の薄絹の衣裳を着てゐた令嬢マリイがいつもよりも一層美しく見えた。おぼこ娘の初恋と云ふものを人格にして見せたらこんなだらうと思はれる程である。ステパンがこの天使のやうな純潔な処女心《をとめごころ》を、うかとした挙動や言語《げんぎよ》で傷るやうな事があつてはならぬと心配して、特別な優しさと用心深さとを以て話を為掛《しか》けてゐると、マリイは伏目になつたり、又背の高い美男のステパンを仰いで見たりしてゐる。
 千八百四十何年と云ふ頃には、紳士社会に一種の道徳的観念があつた。それは紳士が自分は貞操を守らずにゐても好いものとして、中心に不品行を呪はずにゐて、その癖天上にあるやうな純潔を保つてゐる、理想的の女を妻にしようとしてゐたのである。そしてさう云ふ紳士は自分のゐる社会の処女を、悉《こと/″\》くその天上にあるやうな純潔を保つてゐるものだと極めてゐて、その積りで取扱つてゐたのである。そんな紳士は今は亡い。ところがステパンはその紳士の一人であつた。
 男子と云ふものゝ平気でしてゐる穢《けが》れた行跡の事を思へば、かう云ふ観念には数多《あまた》の誤謬と顛倒とを含んでゐる。此観念は今日の男子が頭から処女を牝として取扱ふのとは非常に相違してゐる。併し作者の考ではこの観念は娘や人妻の為めには利益であつた。さう云ふ天使扱をせられると、娘も多少神々しくならうとして努力するわけである。
 ステパンはさう云ふ道徳的観念を持つてゐた紳士の一人であるから、結婚の約束をしたマリイをもその目で見てゐる。けふはステパンがいつもよりも深く溺れたやうな心持になつてゐて、その癖少しも官能的発動は萌《きざ》してゐない。只如何にも感動したやうな態度で、仰ぎ視るべくして迫り近づくべからざるものゝやうに、娘の姿を眺めてゐる。背の高いステパンは、娘の前に衝つ立つて、両手で軍刀の柄《つか》を押へてゐるのである。
 ステパンは恥かしげに微笑みながら云つた。「わたしは今になつて始めて人間と云ふものゝ受けられる幸福の全範囲が分つたのですね。」夫婦の約束をしてから暫くの間は、もうぞんざいな詞《ことば》を使ふ権利がありながら、まだそれを敢てしないものである。ステパンは今その時期になつてゐて、マリイを尊《たつと》いものゝやうに見上げてゐるので、その天使のやうな処女《をとめ》にお前なんぞと云ふ事は出来にくいのである。ステパンはやうやうの事で語を次いだ。「どうもお前のお蔭でわたしは自己と云ふものが分つたのだね。さて分つて見れば、わたしは最初一人で考へてゐたより、余程善良なのだね。」
「あら。わたくしの方ではそれがとうから分つてゐましたの。だからわたくしあなたが好になつたのでございますわ」
 すぐ側でルスチニア鳥が一声啼いた。そして若葉が風にそよいでゐる。
 ステパンはマリイの手を取つてそれに接吻した。その時目には涙が湧いて来た。
 これはあなたが好になつたと云つた礼だと云ふ事を、マリイは悟つた。
 ステパンは黙つて二三歩の間を往つたり来たりしたが、さてマリイの側に腰を掛けた。「あなたには、いや、お前には分つてゐるだらうね。もうかうなつてしまへばどうでも好いのだ。実はわたしがお前に接近したのはどうも利己主義ではなかつたとは云はれない。なぜと云ふにわたしは上流社会に聯絡を付けようと思つて、交際を求めたのだからね。併し暫く立つとわたしの心持は一変した。そんな目的なんぞはお前と云ふものを手に入れる事に比べるとなんでもなくなつた。それはお前の人柄が分つて来たので、さう云ふ心持になつたのだ。ねえ、さう云ふわけだからと云つて、わたしの事を悪く思つてはくれないだらうね。」
 マリイはそれにはなんの返事もせずに、そつとステパンの手を握つた。
 詞で言つたら、「いゝえ、悪くなんぞは思ひません」と云つたのと同じだと云ふ事が、ステパンに分つた。
「さう。今お前が云つたつけね。」ステパンはかう云ひ掛けたが、ちと言ひ過ぎはせぬかと思つたので、ちよつとためらつた。「お前はわたしが好になつたと云つたつけね。それはさうだらうかとわたしも思つてゐる。だがね、おこつては行けないよ、さう云ふお前の感情の外に、まだお前とわたしとの間に何者かゞあつて、それが二人の中の邪魔にもなるし、又お前に不安を覚えさせてゐるらしく、わたしには見えるがね。あれは一体なんだらうね。」
 此詞を聞いた時、打ち明ければ今だ。今言はずにしまへば、言ふ時がないと云ふ事が女の意識を掠めて過ぎた。女は思案した。「どうせ自分が黙つてゐたつて、此事が夫の耳に入《い》らずには済まない。もうかうなつて見れば、打ち明けたところで、此人に棄てられる気遣はない。併しこれまでになつたのは、ほんに嬉しい。若し此人に棄てられる事があるやうでは、わたしに取つては大変だから」と思案した。そして優しい目附でステパンが姿を見た。背の高い立派な巌丈な体である。女は今では此男を帝よりも愛してゐる。若しそれが帝でなかつたら、十人位此男の代りに人にくれて遣つても好いと思つてゐる。そこでかう言ひ出した。「あなたにお話いたして置かなくてはならないのでございますがね。わたくしあなたに隠し立をいたしては済みませんから。わたくし何もかも言つてしまひますわ。どんな事を言ふのだとお思ひなさいませうね。実はわたくし一度恋をしたことがございますの。」かう云つて女は又自分の手をステパンの手の上に載せて歎願するやうに顔を見た。
 ステパンは黙つてゐた。
「あなた相手は誰だとお思ひなさいますの。あの陛下でございます。」
「それは陛下を愛すると云ふことは、あなたにしろわたし共にしろ、皆してゐるのです。女学校にお出の時の話でせう。」
「いゝえ、それより後の事でございます。無論只|空《くう》にお慕ひ申してゐたので、暫く立つと、なんでもなくなつてしまひましたのですが、お話いたして置かなくてはならないのは。」
「そこで。」
「いゝえ。それが只プラトオニツクマンにお慕ひ申したと云ふばかりではございませんでしたから。」
 言ひ放つて、女は両手で顔を隠した。
「なんですと。あなた身をお任せになつたのですか。」
 女は黙つてゐた。
 ステパンは跳り上つた。顔の色は真つ蒼になつて表情筋《へうじやうきん》の痙攣を起してゐる。此時ステパンが思ひ出したのはネウスキイで帝に拝謁した時、帝が此女と自分との約束が出来たのを聞かれて、ひどく喜ばしげに祝詞を述べられたことである。
「あゝ。ステパンさん。わたくしは飛んだ事を申し上げましたね。」
「どうぞもうわたくしに障《さは》らないで下さい。障らないで下さい。あゝ。実になんともかとも言はれない苦痛です。」かう云つて、ステパンはくるりと背中を向けて帰り掛けた。
 そこへ母親が来掛かつた。「侯爵。どうなされたのです。」かう云ひ掛けたが、ステパンの顔色を見て詞を続けることが出来なかつた。
 ステパンの両方の頬には忽然《こつぜん》血が漲つて来たのである。「あなたは御承知でしたね。御承知でわたくしを世間の目を隠す道具にお使になりましたね。あゝ。若しあなたが貴夫人でなかつたら。」最後の詞を叫ぶやうに言つたのである。それと同時にステパンは節榑立《ふしくれだ》つた拳を握り固めて夫人の顔の前で振つた。そしてくるりと背中を向けて駆け出した。
 ステパンは許嫁《いひなづけ》の女の情夫が、若し帝でなくて、外の誰かであつたら、きつと殺さずには置かなかつただらう。ところがそれが帝である。自分の神のやうに敬つてゐる帝である。
 ステパンは翌日すぐに休暇願と辞表とを一しよに出した。そして病気だと云つて一切の面会を謝絶した。それから間もなくペエテルブルクを立つて荘園に引つ込んだ。
 夏の間中掛かつて、ステパンは身上の事を整理した。夏が過ぎ去つてしまふと、再びペエテルブルクに帰らずに、僧になつて僧院に這入つた。
 マリイの母は此様子を聞いて、余り極端な処置を取らせまいと思つて手紙を遣つた。併しステパンは只自分は神の使命の儘にするので、その使命の重大な為めに、何事も顧る事が出来ないのだと云ふ返事をした。ステパンが此時の心持を領解してゐたのは、同じやうに自信のある、名誉心の強い同胞《どうはう》のワルワラ一人であつた。
 ワルワラはステパンの心を洞察してゐた。ステパンは僧院に這入ると同時に、世間の人が難有く思つてゐる一切の事、自分も奉公をしてゐる間矢張難有く思つてゐた一切の事を抛《なげう》つたのである。ステパンはこれまで自分の羨んでゐる人々を眼下に見下《みくだ》すやうな、高い地位に身を置いたのである。併しステパンが僧になつた動機はこればかりではない。これより外に、ワルワラの理解し得ない動機がある。これは此男が真に宗教上の感情を有してゐたのである。此感情が自信や名誉心と交錯して一しよになつて、此男の動作を左右してゐるのである。崇拝してゐたマリイに騙されて、非常な侮辱を蒙つたと思ふと同時に、ステパンは一時絶望の境遇に陥つた。そして子供の時から心の底に忘れずに持つてゐた信仰に立ち戻つて神にたよることになつたのである。

     二

 ステパンが僧院に入《い》つたのは、ロシアでポクロフと云ふ聖母の恩赦の日である。此日にステパンは平生自分を凌いでゐた人々の上に超絶した僧侶生活に入つたのである。
 僧院の長老は上品な老人で、貴族と学者と文士とを兼ねてゐた。長老はルメニアから起つた寺院の組合に属してゐて、此組合は宗門の師匠に対して絶対の服従をしてゐるのである。
 此長老の師匠は名高いアンブロジウスである。アンブロジウスの師匠はマカリウスである。マカリウスの師匠はレオニダスである。レオニダスの師匠はパイジウス・ヱリチユコウスキイである。
 ステパンは此長老の徒弟になつた。併しこゝでもステパンは人に傲《おご》る癖を出さずにはゐられなかつた。僧院内では誰よりもえらいと思つたのである。それからどんな場所で働く時にもさうであつたが、ステパンはこゝでも自分の内生活を出来るだけ完全にしようと企てゝ、さてその目的に向いて進む努力に面白みを感じてゐるやうになつた。
 前にも話した通に、ステパンは聯隊にゐた時、模範的士官であつた。そしてそれに満足しないで、何か任務を命ぜられると、それを十二分に遂行せずには置かなかつた。詰り軍隊に於ける実務の能力に、ステパンは新しいレコオドを作つたのである。さて今僧院に入つたところで、ステパンはこゝでも同じやうに成功しようと思つた。そこでいつも勉強する。慎深くする。謙遜する。柔和に振舞ふ。行為の上では勿論、思想の上でも色慾を制する。それから何事に依らず服従する。
 中にもこの服従と云ふものが、ステパンの為めには、僧院内の生活を余程|容易《たやす》くしてくれる媒《なかだち》になつた。宮城のある都に近い僧院で、参詣する人の数も多いのだから、ステパンがさせられる用向にも、随分迷惑千万な事が少くない。さう云ふ時にステパンは何事にも服従しなくてはならぬと云ふ立場からその用向を辨ずることにしてゐる。宝物の番人をさせられても、唱歌の群に加へられても、客僧を泊らせる宿舎の帳面附をさせられても、ステパンは己は何事に付けても文句を言ふべき身の上ではない、服従しなくてはならないのだと、自分で自分を戒めて働いてゐる。それから何事に付けても懐疑の心が起りさうになると、これも師匠と定めた長老に対する服従と云ふところから防ぎ止めてしまふ。若しこの服従と云ふことがなかつ
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