であつた。
女は此詞を聞いて微笑《ほゝゑ》んだ。「これは思つたよりは話せる人らしい」と心の中《うち》に思つたのである。「ようございますよ。ようございますよ。」かう云ひながら、女はセルギウスの側を摩《す》り抜けるやうにして中に這入つた。「あなたには誠に済みません。こんな事を思ひ切つていたす筈ではないのですが、実は意外な目に逢ひましたので。」
「どうぞ」とセルギウスは女を通らせながら云つた。暫く嗅いだ事のない上等の香水の匂が鼻をくすぐつた。
女は前房を通り抜けて、庵室に這入つた。
セルギウスは外の扉を締めて鉤を卸さずに、女の跡から帰つて来た。「イエス・クリストよ、神の子よ、不便《ふびん》なる罪人《つみびと》に赦し給へ。主よ不便なる罪人に赦し給へ。」こんな唱事《となへごと》を続け様《さま》にしてゐる。心の中《うち》でしてゐるばかりでなく、唇まで動いてゐる。それから「どうぞ」と女に言つた。
女は室の真ん中に立つてゐる。着物から水が点滴《あまだれ》のやうに垂れる。それでも女の目は庵主の姿を見て、目の中《うち》に笑を見せてゐる。「御免なさいよ。あなたのかうして行ひ澄ましてお出なさる所へお邪魔に来まして済みませんね。でも御覧のやうな目に逢ひましたのですから、為方《しかた》がございません。実は町から橇に乗つて遊山に出ましたの。そのうちわたくし皆と賭をして、ヲロビエフスカから町まで歩いて帰ることになりましたの。ところが道に迷つてしまひましてね。わたくし若しあなたの御庵室の前に出て来なかつたら、それこそどうなりましたか。」女はこんな※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》を衝いてゐる。饒舌《しやべ》りながらセルギウスの顔を見てゐるうちに、間が悪くなつて黙つてしまつた。女はセルギウスと云ふ僧を心にゑがいてゐたが、実物は大分違つてゐる。予期した程の美男ではない。併し矢張立派な男には相違ない。頒白《はんぱく》の髪の毛と頬髯とが綺麗に波を打つてゐる。鼻は正しい恰好をして、美しい曲線をゑがいてゐる。目は、真つ直に前を見てゐる時、おこつた炭火のやうに赫いてゐる。兎に角全体が強烈な印象を与へるのである。
セルギウスは女が※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]を衝くのを看破してゐる。「は、さうですか」と女を一目見て、それから視線を床の上に落して云つた。「わたくしはこれからあちらへ這入ります。どうぞこゝでお楽になさりませ。」かう云つてセルギウスは壁に懸けてあるランプを卸して、一本の蝋燭に火を移した。そして女の前で叮嚀に礼をして、奥の小部屋に引つ込んだ。小部屋は板囲の中になつてゐる。
女はセルギウスが何やらあちこち動かし始めたのを聞いてゐる。「わたしとの間の交通遮断をするのだな」と思つて、女は微笑んだ。さて白の毛皮を脱いで、髪の毛の引つ掛かつてゐる帽子を脱いだ。それから帽子の下に巻いてゐた刺繍《ぬひとり》のある巾《きれ》を除《の》けた。女は窓の外へ来た時、実はそんなに濡れてはゐなかつた。さも濡れたらしい様子をして、草庵に入れて貰はうとしたのである。それから戸口へ廻る時、実際|行潦《ぬかるみ》へ左の足を腓腸《ふくらはぎ》まで蹈み込んだ。靴に一ぱい水が這入つた。女は今|氈《かも》一枚で覆つてあるベンチのやうな寝台《ねだい》に腰を掛けて、靴を脱ぎ始めた。そして此庵室を見廻して、却々好い所だと思つた。間口が三尺、奥行が四尺位しかない、小さい一間で、まるで人形の部屋のやうに清潔にしてある。自分の腰を掛けてゐる寝台の外には、壁に取り付けた書棚と祈祷の時|跪《ひざまづ》く台とがあるばかりである。戸の側の壁に釘が二三本打つてあつて、それに毛皮と僧の着る上衣とが懸けてある。祈祷の台の側には荊の冠を戴いたクリストの画像を懸けて、その前に小さい燈火《ともしび》を点《てん》じてある。室内には油と汗と土との臭が充ちてゐる。女には室内の一切の物が気に入つた。此臭までが気に入つた。女の一番気にしてゐるのは足の濡れたのである。中にも行潦に蹈み込んだ左の足は殊にひどく濡れてゐるので、女は早く靴を脱がうとしてあせつてゐる。女は靴をいぢりながら絶えず微笑んでゐる。自分の企てた事をこゝまで運ばせたのを喜んでゐるばかりではない。あの丈夫さうな、異様な、好いたらしい男をちよいと困らせたのが愉快なのである。「わたしがいろんな事を言つたのに、ろくに返事もしてくれなかつたが、まあ、それはどうでも好い」と心の中に女は思つた。そしてすぐに声を出して云つた。「セルギウスさん。セルギウスさん。あなたのお名はさう仰やるのでしたね。」
「何か御用ですか」と小声で答へた。
「御免なさいよ。こんなにわざと寂しくして暮してお出なさる所へ、お邪魔に出て済みません。ですけれど実際どうにもしやうが
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