にさう思はれるのだ。」かう云つて、セルギウスは居間の隅へ歩いて往つた。そこには祈祷をする台が据ゑてある。セルギウスはいつも為馴《しな》れてゐる儀式通りに膝を衝いた。体を此格好にしたゞけでも、もう慰藉《なぐさめ》になり歓喜を生ずるのである。セルギウスは俯伏《うつふし》になつた。髪の毛が顔に掛かつた。もう大分髪の毛のまばらになつた額際《ひたひぎは》を、湿つて冷たい床に押し当てた。そして同宿であつた老僧ビイメンの教へてくれた、悪魔除の頌《じゆ》を読み始めた。それから筋張つた脛で、痩て軽くなつた体を支へて起き上つて、跡を読み続けようとした。併しまだ跡を読まぬうちに、覚えず何か物音がしはせぬかと耳を聳《そばだ》てた。
四隣|闃《げき》として物音がない。草庵の隅に据ゑてある小さい桶の中へ、いつものやうに点滴が落ちてゐる。外は霧が籠めて真つ闇になつてゐて雪も見えない。墓穴の中のやうな静けさである。
その時忽ち何物かゞさら/\と窓に触れて、はつきりした女の声が聞えた。目で見ないでも、美人だと云ふことが分るやうな声である。
「どうぞクリスト様に懸けてお願申します。戸をお開けなすつて。」
セルギウスは全身の血が悉《こと/″\》く心の臓に流れ戻つて、そこに淀んだやうな気がした。息が詰つた。やう/\の事で、「而して主は復活し給ふべし、敵を折伏し給ふべし」と唱へた。地獄から現れた悪霊を払ひ除けようと思つたのである。
「わたくしは悪魔なんぞではございません。只あたりまへの罪の深い女でございます。あたりまへの意味で申しても、又形容して申しても、道に踏み迷つた女でございます。」初め言ひ出した時から、なんだかその詞を出す唇は笑つてゐるらしかつたが、とう/\こゝまで言つて噴き出した。それからかう云つた。
「わたくしは寒くて凍えさうになつてゐますのですよ。どうぞあなたの所にお入れなすつて下さいまし。」
セルギウスは顔を窓硝子《まどガラス》に当てた。併し室内の燈火《ともしび》の光が強く反射してゐて、外は少しも見えなかつた。そこで両手で目を囲つて覗いて見た。外は霧と闇と森とである。少し右の方を見ると、成程女が立つてゐる。女は毛の長い、白い毛皮を着て、頭には鳥打帽子のやうな帽子を被つてゐる。その下から見えてゐる顔は非常に可哀らしい、人の好さゝうな、物に驚いてゐるやうな顔である。それがずつと窓の近くへ寄つて首を屈《かが》めて乗り出して来た。二人は目を見合せた。そして互に認識した。これは昔見た事のある人だと云ふのではない。二人はこれまで一度も逢つた事がないのである。併し目を見交《みかは》した所で、互に相手の心が知れたのである。殊にセルギウスの方で女の心が知れた。只一目見たばかりで、悪魔ではないかと云ふ疑は晴れた。只の、人の好い、可哀らしい、臆病な女だと云ふことが知れた。
「あなたはどなたですか。なんの御用ですか。」セルギウスが問うた。
女は我儘らしい口吻《こうふん》で答へた。「兎に角戸を開けて下さいましな。わたくしは凍えてゐるのでございますよ。道に迷つたのだと云ふことは、さつき云つたぢやありませんか。」
「でもわたしは僧侶です。こゝに世を遁れて住んでゐるのです。」
「だつて好いぢやありませんか。開けて下さいましよ。それともわたくしがあなたの庵《いほり》の窓の外で、あなたが御祈祷をして入らつしやる最中に、凍え死んでも宜しいのですか。」
「併しこゝへ這入つてどうしようと。」
「わたくしあなたに食ひ付きはいたしません。どうぞお開けなすつて。凍え死ぬかも知れませんよ。」段々物を言つてゐるうちに、女は実際気味が悪くなつたと見えて、しまひは殆ど泣声になつてゐる。
セルギウスは窓から引つ込んだ。そして荊《いばら》の冠《かんむり》を戴いてゐるクリストの肖像を見上げた。「主よ。お助け下さい。主よ。お助け下さい。」かう云つて指で十字を切つて額を土に付けた。それから前房に出る戸を開けた。そこで手探に鉤《かぎ》のある所を捜して鉤をいぢつてゐた。
その時外に足音が聞えた。女が窓から戸口の方へ来たのである。突然女が「あれ」と叫んだ。
セルギウスは女が檐下《のきした》の雨落《あまおち》に足を踏み込んだと云ふ事を知つた。手に握つてゐる戸の鉤を撥ね上げようとする手先が震えた。
「なぜそんなにお手間が取れますの。入れて下すつたつても好いぢやありませんか。わたくしはぐつしより濡れて、凍えさうになつてゐます。あなたが御自分の霊の助かる事ばかり考へて入らつしやるうちに、わたくしはこゝで凍え死ぬかも知れませんよ。」
セルギウスは扉を自分の方へうんと引いて、鉤を撥ね上げた。それから戸を少し開けると、覚えずその戸で女の体を衝いた。「あ。御免なさいよ。」これは昔貴夫人を叮嚀に取扱つた時の呼吸が計らず出たの
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