なかつたのです。もう少しあんなにしてゐると、わたくしきつと病気になつてしまひました。どういたして宜しいか分らなかつたのですもの。わたくしぐつしより濡れてゐますの。それに足が両方とも氷のやうに冷たくて。」
「どうぞ御免下さい。どうもわたくしはどうにもしてお上げ申す事が出来ません。」又小声でかう答へた。
「いゝえ。決してあなたにお手数は掛ません。只明るくなるまで、こゝにゐさせて戴きます。」
 もうセルギウスは返事をしない。女の耳には何かつぶやく声が聞えた。多分祈祷してゐるのだらう。
 女は微笑みながらかう云つた。「あなたこゝへ出て入らつしやるやうな事はございますまいね。わたくしこゝで着物を脱いで体を拭かなくてはなりませんが。」
 セルギウスは答へなかつた。矢張今までのやうに小さい声で祈祷の詞を唱へてゐる。
 女は濡れた靴を強ひて脱ぎ掛けて、「あゝした男なのだな」と考へた。靴は引つ張つても引つ張つても脱がれぬので、女は可笑しくなつて来た。そして殆ど声を出さずに笑つた。それから自分が笑つたら、庵主がそれを聞くだらうと思つた。又それが聞えた時自分の希望する通りの功能があるだらうと思つた。そこで今度は声を立てゝ笑つた。快活な、自然な、人の好さゝうな笑である。実際此笑声は女の希望した通りの作用をセルギウスの上に起したのである。女は思つた。「あんな風な男なら、随分好いて遣る事が出来さうだ。まあ、なんと云ふ目だらう。それに幾ら祈祷の文句を唱へたつて、なんと云ふ打ち明けたやうな、上品な、そして情熱のある顔だらう。わたし達のやうな女には皆分る。あの人はあの窓硝子に顔を押し付けてわたしを見た時、あの時もうわたしの事が分つて、わたしがどんな女だと云ふ事を見抜いたのだ。あの人の目はその時赫いた。あの人はその時わたしの姿を深く心に刻んだ。あの人はもうわたしに恋をしたのだ、惚れたのだ。さうだ。たしかに惚れたのだ。」こゝまで思つて見た時、靴がやつと脱げた。それから女は靴足袋を脱ぎに掛かつた。上の端がゴム紐で留めてある、長い靴足袋を脱ぐには、裳《も》をまくらなくてはならない。流石《さすが》に間を悪く思つて、女は小声で云つた。「あの、今こちらへ入らつしやつては困りますよ。」
 板為切《いたじきり》の向側からは返事が聞えない。矢張単調な祈祷の声がしてゐる。それと慌《あわたゞ》しげに立ち振舞ふ物音がするだけである。
 女は思つた。「きつと今額を土に付けて礼をしてゐるのだらう。だけれどもそれがなんになるものか。丁度わたしがこつちであの人の事を思つてゐるやうに、あの人はあつちでわたしの事を思つてゐるのだもの。わたしがあの人の姿を思つてゐるやうに、あの人はわたしの此脚の事を思つてゐるのだもの。」とう/\女は濡れた靴足袋を脱いでしまつた。それから素足で寝台の上を歩いて見て、しまひにはその上に胡座《あぐら》を掻いた。それから暫く両手で膝頭を抱いて、前の方を見詰めて、物を案じてゐた。「ほんにこゝは、沙漠の中も同じ事だ。こゝで何をしたつて、誰にも分りやあしない。」
 女は身を起した。そして靴足袋を手に持つて、炉の側へ往つて煙突の上に置いた。それから素足で床を軽く蹈んで、寝台へ戻つて来て、又その上で胡座を掻いた。
 板為切の向側ではまるで物音がしなくなつた。女は頸に掛けてゐた、小さい時計を見た。もう二時になつてゐる。「三時頃には連の人達が此庵の前に来る筈だ」と女は思つた。もうそれまでには一時間しかないのである。「えゝ。詰らない。こゝにかうして一人で坐つてゐて溜まるものか。馬鹿。わたしともあるものがそんな目に逢ふ筈がない。すぐに一つ声を掛けて見よう。」女はかう思つて呼んだ。「セルギウスさん。セルギウスさん。セルゲイ・ドミトリエヰツチユさん。カツサツキイ侯爵。」
 戸の奥はひつそりしてゐる。
「お聞きなさいよ。あなたそれではあんまり残酷でございませう。わたくしはあなたをお呼申さないで済むことなら、お呼申しはいたしません。わたくしは病気です。どうしたのだか分りません。」女の声は激してゐる。「あゝ。あゝ。」女はうめいた。そして頭を音のするやうに寝台の上に投げた。不思議な事には、実際此時|脱力《だつりよく》したやうな、体中が痛むやうな、熱がして寒けがするやうな心持になつたのである。「お聞きなさいよ。あなたがどうにかして下さらなくてはならないのです。わたくしどうしたのだか分りません。あゝ。あゝ。」かう云つて女は上衣の前のボタンをはづして胸を出して、肘までまくつた腕を背後《うしろ》へひろげた。「あゝ。あゝ。」
 此間始終セルギウスは板為切の奥に立つて祈祷してゐた。とう/\晩に唱へるだけの祈祷の文句を皆唱へてしまつて、しまひには両眼の視線を自分の鼻の先に向けて、動かずに立つてゐて、「イエス・クリスト
前へ 次へ
全29ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
トルストイ レオ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング