ノ起る忘我の感じの外、何物をも感じまいとしてゐる。
 けふもセルギウスはいつものやうに持場に立つてゐた。額を土に付けるやうに身を屈めた。手で十字を切つた。そして例の怒が起りさうになると、それを剋伏しようとして努力した。或は冷静に自ら戒めて見たり、或は故意に自分の思想や感情をぼかしてゐようとしたりするのである。
 そこへ同宿のニコデムスと云ふ院僧が歩み寄つた。ニコデムスは僧院の会計主任である。これも兎角セルギウスに怒《いかり》を起させる傾《かたむき》があるので、セルギウスは不断恐しい誘惑の一つとして感じてゐたのである。なぜかと云ふにセルギウスが目にはどうも、ニコデムスは長老に媚び諂《へつら》つてゐるやうに見えてならない。さてそのニコデムスが側へ来て、叮嚀に礼をして云つた。長老様の仰せですが、ちよつと贄卓のある為切《しきり》まで御足労を願ひたいと云つたのである。
 セルギウスは法衣《はふえ》の領《えり》を正し、僧帽を被《かぶ》つて、そろ/\群集の間を分けて歩き出した。
 〔Lise《リイズ》, regarde《ルガルト》 a`《ア》 droite《ドロアト》, c'est《セエ》 lui《リユイ》!〕(リイズさん。右の方を御覧よ。あの人よ。)かう云ふ女の声が耳に入つた。
 〔Ou`《ウウ》, ou`《ウウ》? Il《イル》 n'est《ネエ》 pas《パア》 tellement《テルマン》 beau《ボオ》!〕(どこ、どこ。あの人はそんなに好い男ぢやないわ。)今一人の女のかう云ふのが聞えた。
 セルギウスは自分の事を言ふのだと知つてゐる。それで今の対話を聞くや否や、いつも誘惑に出逢ふ度に繰り返す詞を口に唱へた。「而して我等を誘惑に導き給ふな」と云ふ詞である。セルギウスはそれを唱へながら項《うなじ》を垂れ、伏目になつて進んだ。贄卓の前の一段高い所を廻つて、讃美歌の発唱の群を除けて進んだ。発唱の群は丁度聖者の画像のある壁の所に出てゐたのである。セルギウスはやう/\贄卓の為切の北口から進み入つた。この口から這入る時は、敬礼をするのが式である。セルギウスは式に依つて聖像の前で頭を低く下げた。さて顔を上げて、体は動かさずに、長老の横顔を伺つた。その時長老は今一人の光り輝く男と並んで立つてゐた。
 長老は式の法衣を着て壁の側に立つてゐる。ミサの上衣のはづれから肥え太つた手と短い指とを出して、それを便々たる腹の上に重ねてゐた。セルギウスが横から見た時、長老は微笑みながら右の手で法衣の流蘇《ふさ》をいぢつて、相手の男と話をし出した。その男は隊外将官の軍服を被てゐる。セルギウスは軍人であつたから服装を見ることは馴れてゐる。そこで肩章や記章の文字をすぐに見分ける事が出来た。この将官は自分の付いてゐた聯隊で聯隊長をしてゐた男である。今は定めて余程高い地位に陞《のぼ》つてゐることだらう。
 セルギウスは一目見てかう云ふ事を悟つた。それはこの高級武官が自分の昔の上官であつたと云ふ事を、長老が知つてゐて、それで長老の肥え太つた赤ら顔と禿頭《はげあたま》とが喜に赫いてゐると云ふ事である。
 セルギウスはそれだけでも侮辱せられたやうに感じた。そこで長老が何を言ふかと思ふと、只その将官が見たいと云ふので呼んだのだと云つた。「昔聯隊で同僚であつたあなたに逢ひたいと云はれたので」と、長老は将官の詞を取り次いだ。此時セルギウスは一層強烈に侮辱を感ぜずにはゐられなかつた。
 将官は右の手をセルギウスが前に伸した。
「久し振りでお目に掛かりますね。あなたが法衣をお着になつたところを見るのは、意外の幸です。昔の同僚をお忘にはなりますまいね。」
 白髪で囲まれた長老の笑顔は将官の詞を面白がつてゐるやうに見える。それから将官の叮嚀に化粧をした顔には、得意の色が浮んで、その口からは酒の匂、その頬髯からは葉巻煙草の匂がする。総て此等の事を、セルギウスは鞭で打たれるやうに感じた。
 セルギウスは長老に向つて再び敬礼した。そして云つた。「長老様のわたくしをお呼になつた御用は。」かう云つた時のセルギウスが顔と目との表情には「なぜか」と云ふ問が現はれてゐた。
 長老は答へた。「なに。只閣下があなたを見たいと云はれたからですよ。」
 セルギウスの顔は真つ蒼になつて、物を言ふ時唇が震えた。「わたくしは世間の誘惑を避けようと思つてそれで社会から身を引いたのでございます。それに只今主の礼拝堂で、祈祷の最中に、なぜ誘惑がわたくしに近づくやうにお取計らひになりましたか。」
 長老の顔は火のやうになつて、額に皺が寄つた。「もう宜しいから、持場へお帰なさい。」
 その晩にはセルギウスは徹夜して祈祷をした。そして心密《こゝろひそか》に決するところがあつて、翌朝長老と同宿一同とに謝罪した。自分の驕慢を詫びたのであ
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