《にへづくゑ》に贄を捧げる時、深い感動と興奮とを覚えて来るのである。然るにさう云ふ感じが時の立つに連れて次第に鈍くなつた。今度は例の悪い日が来て、精神の抑圧に逢つて、ふと此贄を捧げる時の感動と興奮とが、いつか消え失せてしまふだらうと思つた。果して暫くするうちに、尊《たつと》い儀式をする時の感じが次第に弱くなつた末に、とう/\只の習慣で贄を捧げてしまふやうになつた。
 僧院に入《い》つてから七年目になつた時である。セルギウスは万事に付けて退屈を覚えて来た。学ぶだけの事は皆学んでしまつた。達せられるだけの境界には総て達してしまつた。もう何もして見る事がなくなつたのである。
 その代りにステパンは世間を脱離したと云ふ感じが次第に強くなつた。丁度その頃母の死んだ訃音《ふいん》と、マリイが人と結婚した通知とに接したが、ステパンはそれにも動かされなかつた。只内生活に関してのみ注意し、又利害を感じてゐるのである。
 院僧になつてから四年立つた時、当宗の管長から、度々優遇せられたことがある。そのうち長老からこんな噂を聞かせられた。それは若し上役に昇進させられるやうな事があつても辞退してはならぬと云ふ事であつた。此時僧侶の間で最も忌むべき顕栄を干《もと》める念が始めてステパンの心の中《うち》に萌《きざ》した。間もなくステパンは矢張都に近い或る僧院に栄転して一段高い役を勤めることを命ぜられた。ステパンは一応辞退しようとしたが、長老が強ひて承諾させた。ステパンはとう/\服従して、長老に暇乞をして新しい僧院に移つた。
 都に近い新しい僧院に引き越したのは、ステパンの為めには重大な出来事であつた。それは種々の誘惑が身に迫つて来て、ステパンは極力それに抗抵しなくてはならなかつたからである。
 前の僧院にゐた時は、女色《ぢよしよく》の誘惑を受けると云ふことはめつたになかつた。然るに今度の僧院に入《い》るや否や、この誘惑が恐ろしい勢力を以て肉迫して来て、然も具体的に目前に現はれたのである。
 その頃品行上評判の好くない、有名な貴夫人があつた。それがセルギウスに近づかうと試みた。セルギウスに詞を掛け、遂に自分の屋敷へ請待《しやうだい》した。セルギウスはそれをきつぱり断つた。併しその時自分の心の底にその女に近づきたい欲望が不遠慮に起つたので、我ながら浅ましく又恐ろしく思つた。セルギウスは余りの恐ろしさにその顛末を前の僧院の長老に打ち明けて、どうぞ力になつて自分を堕落させないやうにして貰ひたいと頼んだ。セルギウスはそれだけではまだ不安心のやうに思つたので、自分に付けられてゐる見習の僧を呼んで、それに恥を忍んで自分の情慾の事を打ち明けて、どうぞこれからは己が勤行に往くのと、それから懺悔に往くのとの外、決してどこへも往かぬやうに、側で見張つてゐてくれと言ひ含めた。
 新しい僧院に入つてから、セルギウスは今一つの難儀に出逢つた。それは今度の僧院の長老が自分の為めにひどく虫の好かぬ男だと云ふことである。此長老は頗る世間的な思想を持つてゐる、敏捷な男である。そして常に僧侶仲間の顕要な地位を得ようと心掛けてゐる。セルギウスはどうかして自分の心を入れ替へて今の長老を嫌はぬやうになりたいと努力した。その結果セルギウスは表面的には平気で交際することが出来るやうになつた。併しどうしても心の底では憎まずにはゐられない。そして或る時この憎悪の情がとう/\爆発してしまつた。
 それは此僧院に来てからもう二年立つた時の事であつた。聖母の恩赦の祭日に本堂で夜のミサが執行《しゆぎやう》せられた。参詣人は夥《おびたゞ》しかつた。そこで長老が儀式をした。セルギウスは自分の持場に席を占めて祈祷をしてゐた。いつもかう云ふ場合にはセルギウスは一種の内生活の争闘を閲《けみ》してゐる。殊に本堂で勤行をするとなると、その争闘を強く起してゐる。争闘と云ふのは別ではない。参詣人の中の上流社会、就中《なかんづく》貴夫人を見て、セルギウスは激怒を発する。なぜかと云ふにさう云ふ上流の人達が僧院に入《い》り込んで来る時には、兵卒が護衛して来て、それが賤民を押し退ける。それから貴夫人達はどれかの僧侶に指さしをして囁き交す。大抵指さゝれるのは自分と、今一人の美男の評判のある僧とである。そんな事を見るのが嫌なので、セルギウスは周囲の出来事に対して、総て目を閉ぢて見ずにゐようとする。セルギウスは譬へば馬車の馬に目隠しをするやうに、贄卓の蝋燭の光と、聖者の画像と、それから祈祷をしてゐる人々との外は何物をも見まいとする。それから耳にも讃美歌の声と祈祷の文句との外には何物をも聞くまいとする。又意識の上でも、いつも自分が聞き馴れた祈祷の詞を聞いたり、又繰り返して唱へたりする時、きつと起つて来る一種の感じ、即ち任務を尽してゐると自覚した時
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