スら、ステパンは日々《にち/\》の勤行《ごんぎやう》の単調で退屈なのに難儀したり、参詣人の雑沓をうるさがつたり、同宿の不行儀なのを苦に病んだりした事だらう。
然るにステパンは服従を旨としてゐるので、さう云ふ一切の困難を平気で、嬉しげに身に受けてゐる。そればかりではない。その迷惑をするのが却て慰藉《なぐさめ》になり、たよりになるのである。ステパンはこんな独語《ひとりごと》を言つてゐる。「毎日何遍となく同じ祈祷の文句を聞かなくてはならぬのはどうしたわけだか、己には分らない。併し兎に角さうしなくてはならないのだ。だから己にはそれが難有い」と云つてゐる。或る時師匠がステパンに言つて聞かせた。「人間は体を養ふ為めに飲食をすると同じ事で、心を養ふ為めに心の飲食をしなくてはならぬ。それが寺院での祈祷だ」と云ふのである。ステパンはそれを聞いて信用した。そこで朝早く眠たいのに床から起されて勤行に出て往つても、それがステパンの為めに慰安になり、又それに依つて歓喜を生ずることになるのである。その外自分が誰にでも謙遜してゐると云ふ意識も、師匠たる長老に命ぜられて自分のするだけの事が一々規律に※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1−84−56]《かな》つて無瑕瑾《むかきん》だと云ふ自信も、ステパンに歓喜を生ぜさせるのである。
ステパンはこんな風に自分の意思を抑制する事、自分の謙徳を増長する事などに次第に力を籠めてゐたが、それだけでは満足する事が出来なかつた。ステパンはその外一切のクリスト教の徳義を実行しようとした。そして最初にはそれが格別困難ではないやうに思はれた。
ステパンは財産を挙げて僧院に贈与した。そしてそれを惜しいとも思はなかつた。懶惰と云ふものは生来知らない。自分より眼下《めした》になつてゐる人に対して謙遜するのは、造作もないばかりではなく、却て嬉しかつた。一歩進んで金銭上の利慾と、肉慾とを剋伏《こくふく》することも、余り骨は折れなかつた。中にも肉慾は長老がひどく恐ろしいものだと云つて戒めてくれたのに、自分が平気でそれを絶つてゐられるのが嬉しかつた。只|許嫁《いひなづけ》のマリイの事を思ひ出すと煩悶する。只マリイと云ふ人の事を思ふのがつらいばかりではない。若しあの話を聞かずに結婚したら、その後どうなつたゞらうと考へて見ると、その想像が意外にも自分の遁世を大早計《だいさうけい》であつたかの如く思はせるのである。ステパンは不随意に陛下の或るおもひものゝ成行を考へ出す。その女は後に人の女房になつて家庭を作つてから、妻としても母としても立派なものであつた。その夫は顕要の地位にをつて人に尊敬せられ、そして前の過を悔いる為めに珍らしい善人になつた女房を持つてゐたのである。
時としてはステパンの心が冷静になつて、そんな妄想《まうざう》が跡を絶つてしまふ。そんな時に前に言つたやうな妄想を思ひ出して見ると、自分がそれに負けずに、誘惑に打ち勝つたのが嬉しくなる。
それかと思ふと、ステパンが為めには又悪い日が来ることがある。その時ステパンは今の身の上で生涯の目的にしてゐる信仰を忘れはしないが、どうも今日《こんにち》僧院でしてゐる事が興味のないものになつてしまふ。そんな時には自分の信仰の内容を現前《げんぜん》せしめようとしてもそれが出来ない。その代りに悲しい記憶が呼び出されて来る。そして自分の遁世したのを後悔するやうになつて来る。
そんな時にはステパンは服従と労作と祈祷との三つを唯一の活路とするより外はない。そんな時の祈祷には額を土に付けるやうにして、又常よりも長い間文句を唱へてゐる。その癖只口で唱へるだけで、霊は余所《よそ》に逸《そ》れてゐる。そんな時が一日か二日かあつて、そのうち自然に過ぎ去つてしまふ。その一日か二日がステパンが為めには恐ろしくてならない。なぜと云ふに自分の意志の下にも立たず、神の威力の下にも立つてゐず、何物とも知れぬ不思議な威力が自分を支配してゐるらしく思はれるからである。さてさう云ふ日にはどうしようかと、自分で考へて見たり、又長老に意見を問うて見たりしたが、詰り長老の指図に従つて専ら自分で自分を制して、別に何事をも行はず、時の過ぎ去るのを待つてゐるより外ない。そんな時にはステパンは自分の意志に従つて生活せずに、長老の意思に従つて生活するやうに思つてゐる。そしてそこに慰安を得てゐるのである。
先づこんな工合で、ステパンは最初に身を投じた僧院に七年間ゐた。その間で、第三年の末に院僧の列に加へられて、セルギウスと云ふ法号を貰つた。此時の儀式がセルギウスの為めには、内生活の上の重大な出来事として感ぜられた。それまでにもセルギウスは聖餐を戴く度に慰安を得て心が清くなる様に思つたが、今院僧になつて自分で神に仕へる事になつて見ると、贄
前へ
次へ
全29ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
トルストイ レオ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング