驕Bそれと同時にセルギウスは此僧院を去ることにして、前にゐた僧院の長老に手紙を遣つて、自分が帰つて往くから引き取つて貰ひたいと頼んだ。手紙にはこんな事が書いてあつた。自分は志が堅固でなくて、とてもお師匠様なしには、誘惑と戦つて行くわけに行かない。それに罪の深い驕慢の心が起つたのを悔いると云つてあつた。
 折り返しての便に長老の返書が来た。如何にも此度の事件はおもにお前の驕慢から生じてゐるに相違ない。お前のおこつた動機を察するにかうである。お前は地位を進めて遣らうと云つた時辞退した。あれなども神を思つての謙遜からでなくて、自尊の心からである。「見てくれ。己はどんな人間だと思ふ。己はなんにも欲しがりはしない」と云ふ心持である。そんな心持でゐるから新しい僧院の長老の所作を見た時、平気でゐることが出来なかつたのである。「己は神の栄誉の為めに一切の物を擲つた。それにこゝでは己を珍らしい獣のやうに見せ物にする」と思つたのだ。お前が真に神の栄誉の為めに、一切の世間の名聞《みやうもん》を棄てゝゐるなら、その位の事に逢つたつて、平気でゐられる筈である。お前の心にはまだ世間の驕慢が消え失せずにゐる。わたしはお前の事を委《くは》しく考へて見た。そしてお前の為めに祈祷をした。そこでわたしの得た神のお告はかうだ。これまでのやうに暮してゐて、身を屈するが好いと云ふのである。それと同時に己は外の報告を得た。それは山に隠れてゐた僧のイルラリオンが聖なる生涯を閲《けみ》し尽して草庵の中《うち》で亡くなつたと云ふのである。イルラリオンは草庵に十八年住んでゐた。あの山の首座が己に訃音を知らせると同時に、あの跡を引き受けて草庵に住んでくれるやうな僧はあるまいかと問ひ合せてよこした。丁度そのところへお前の手紙が来たのだ。そこで己はタムビノ僧院のバイシウス首座に手紙の返事を遣つた。お前の名を紹介して置いた。お前は今からバイシウス長老の所へ往つて、イルラリオンの跡の草庵に住まふやうに願ふが好い。これはイルラリオンのやうな清浄な人の代になるお前だと云ふのではない。あんな寂《さみ》しい所にゐたら、お前がその驕慢を棄てることが出来ようかと思ふのである。わたしはどうぞ神がお前を祝福して下さるやうにと祈つてゐる。
 セルギウスは前の僧院の長老の詞に従つた。そして今の僧院の長老に右の手紙を見せて、転宿の許可を得た。それからこれまで自分の住んでゐた宿房とその中にある器財とを皆僧院に引き渡して置いて、タムビノの山をさして出立した。
 山の首座は素《もと》商人で遁世した人である。此人がセルギウスを引見して、なんの変つた扱をもせずに、只あたり前の事のやうに寂しい草庵を引き渡してくれた。草庵と云ふのは山の半腹を横に掘り込んだ洞窟である。亡くなつた先住イルラリオンもそこに葬つてある。即ち洞窟の一番奥の龕《がん》が墓になつてゐて、その隣の龕が後住《ごぢう》の寝間になつてゐるのである。そこには藁を束ねた床がある。その外卓が一つ、聖像と書物数巻とを置いてある棚が一つある。扉は内から錠を卸すことが出来るやうにしてある。その扉の外面にも棚が吊つてあつて、これは毎日一度づゝ僧院から食事を持つて来て載せて置いてくれる棚である。
 セルギウスはとう/\山籠《やまごもり》の人になつてしまつた。

     三

 セルギウスが山籠をしてから六年目のことであつた。ロシアではクリスト復活祭の前にモステニツアと云つて一週間バタや玉子を食べて肉を断つてゐることがある。そのモステニツアに、タムビノに近い或る都会で、富有な男女の人々が集つて会食をした。此連中が食後に橇に乗つて近郊へ遊びに行かうと云ふことになつた。その人々は辯護士が二人、富有な地主が一人、士官が一人、それに貴夫人が四人であつた。夫人の一人は士官の妻《さい》で、今一人は地主の妻である。三人目の女は地主の同胞《どうはう》で未婚の娘である。さて四人目の女が一度離婚したことのある人で、器量が好くて財産がある。そしていつも常軌を逸した事をして市中の人を驚かしてゐるのである。
 その日は上天気で、橇に乗つて往く道は好い。市中を離れて十ヱルストばかりの所に来て、一同休んだ。その時こゝから引き返さうか、もつと先まで往かうかと云ふ評議があつた。
「一体此道はどこまで行かれる道ですか」とマスコフキナが問うた。例の離婚した事のある美人である。
「これからもう十二ヱルスト行けばタムビノです」と辯護士の一人が答へた。これは平生マスコフキナの機嫌を取つてゐる男である。
「さう。それから先は。」
「それから先はL市に往くのです。タムビノの僧院の側を通つて往くのです。」
「そんならその僧院はあのセルギウスと云ふ坊さんのゐる所ですね。」
「さうです。」
「あれはステパン・カツサツキイと云つた士
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