その時突然非常に眠たくなつた。もう頭を上げてはゐられない。そこで肱を曲げてそれを枕にしてすぐに寐入つた。
此眠は只一刹那で覚めた。そしてセルギウスの心頭には、半ばは夢のやうに、昔の記念が浮んで来た。
セルギウスはまだ子供半分の時に、田舎で、母の許にゐた。母衣《ほろ》を掛けて半分隠した馬車が家の前に来て留まつた。馬車の中からはニコライ・セルギエヰツチユをぢさんが出た。恐ろしい黒い鎌鬚の生えた人である。そのをぢさんが痩せた、小さい娘を連れてゐる。名はパシエンカと云つて、大きい優しい目の、はにかんだ顔をしてゐる。パシエンカは我々男の子の仲間に連れて来られたので、我々はその子と一しよに遊ばなくてはならなかつた。その遊がひどく退屈だ。娘が余り馬鹿だからである。とう/\しまひには男の子が皆娘を馬鹿にして、娘に泳げるか泳いで見せろと云つた。娘はこんなに泳げると云つて、土の上に腹這になつて泳ぐ真似をした。男の子等は皆|可笑《をか》しがつて笑つた。娘は馬鹿にせられたのに気が付いて頬の上に大きい真つ赤な斑《ぶち》が出来た。その様子が如何にも際限なく、哀《あはれ》つぽいので、男の子等が却て自分達のした事を恥かしく思つた。そして娘の人の好げな、へり下つた、悲しげな微笑が長く男の子等の記憶に刻み付けられた。
余程年が立つてから、セルギウスはその娘に再会した事がある。丁度自分の僧院に入るすぐ前であつた。娘は田地持《でんぢもち》の女房になつてゐた。その夫が娘の財産を濫費して、女房を打擲する。もう子が二人出来た。息子一人に娘一人である。息子は生れて間もなく死んだ。此女の如何にも不幸であつた事をセルギウスは思ひ出した。
それから僧院に入つた後に、セルギウスは此女の後家になつて来たのを見た。女は昔の儘で、矢張馬鹿で、気の利かない粧《よそほひ》をしてゐた。詰らぬ、気の毒なやうな女である。娘とその婿とを連れて来た。その頃一家はすつかり微禄してゐた。
その後セルギウスは、その女の一家が或る地方の町でひどく貧乏になつて暮してゐるのを聞いた。
「一体己はあの女の事を、今なぜ思ひ出すのだらう」とセルギウスは自ら問うた。併しどうしてもその女の事より外の事を思つて見ることが出来ない。「あの女は今どこにゐるだらう。どうしてゐるだらう。矢張今でも土に腹這つて泳ぐ真似をした時のやうに馬鹿でゐるだらうか。あゝ。なぜ
前へ
次へ
全57ページ中45ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
トルストイ レオ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング