ぜ聞くの。」かう云つて娘はセルギウスの手を握つて接吻した。それから両腕でセルギウスの体に抱き付いて、しつかり抱き締めた。
「マリア。お前どうするのだい。お前は悪魔だなあ。」
「あら。何を言つてゐるの。こんな事はなんでもありやしないわ。」かう云つていよ/\きつく抱き締めて一しよに床の上に腰を掛けた。
     ――――――――――――
 夜が明けてセルギウスは戸の外へ出た。「一体|昨夕《ゆうべ》の事は事実だらうか。今にあの父親が来るだらう。そしたら娘が何もかも話すだらう。あいつは悪魔だ。まあ、己は何をしたのだらう。あそこには斧がある。己のいつかの時指を切つたのが、あの斧だ」。セルギウスは斧を手に持つて、庵室に帰つた。
 世話をしてゐる僧が出迎へた。「薪をこはしませうか。こはすのなら、その斧を戴きませう。」
 セルギウスは斧を渡した。そして庵室に入つた。娘はまだ横になつたまゝでゐる。眠つてゐる。セルギウスはひどく気味悪く思つて娘を見た。それから兼ねてしまつて置いた百姓の衣類を取り出してそれを着た。それから剪刀《かみそり》を取つて髪を短く切つた。
 セルギウスは庵室を抜け出して、森の中の道を河に沿うて下つて行つた。此河岸をばもう四年|以来《このかた》歩いた事がないのである。
 街道は河の岸にある。それをセルギウスは日が中天に昇るまで歩いた。それから燕麦《からすむぎ》の畑《はた》に蹈み込んでそこに寝て休んだ。
 セルギウスは夕方になつて或る村の畔《ほとり》に来た。併しその村には足を入れずに河の方へ歩いて往つて、懸崖《がけ》の下で夜を明かした。
 目の覚めたのは、翌朝日の出前半時間ばかりの時であつた。どこもかしこも陰気に灰色に見えてゐる。西から冷たい朝風が吹いて来る。「あゝ。己は此辺で始末を付けなくてはならぬ。神と云ふものはない。だが始末はどう付けたものだらう。河に身を投げようか。己は泳ぎを知つてゐるから、溺れないだらう。首を縊らうか。あ。こゝに革紐がある。あの木の枝が丁度好い。」此手段は容易《たやす》く行ふことが出来さうである。手に取られさうに容易いのである。それが為めにセルギウスは却て身震をして身を背後《うしろ》へ引いた。そしていつもこんな絶望の時にしたやうに、祈祷をしようと思つた。併し誰に祈祷をしたらよからう。神と云ふものは無い。セルギウスは横になつて頬杖を衝いてゐた。
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