つて首を屈《かが》めて乗り出して来た。二人は目を見合せた。そして互に認識した。これは昔見た事のある人だと云ふのではない。二人はこれまで一度も逢つた事がないのである。併し目を見交《みかは》した所で、互に相手の心が知れたのである。殊にセルギウスの方で女の心が知れた。只一目見たばかりで、悪魔ではないかと云ふ疑は晴れた。只の、人の好い、可哀らしい、臆病な女だと云ふことが知れた。
「あなたはどなたですか。なんの御用ですか。」セルギウスが問うた。
女は我儘らしい口吻《こうふん》で答へた。「兎に角戸を開けて下さいましな。わたくしは凍えてゐるのでございますよ。道に迷つたのだと云ふことは、さつき云つたぢやありませんか。」
「でもわたしは僧侶です。こゝに世を遁れて住んでゐるのです。」
「だつて好いぢやありませんか。開けて下さいましよ。それともわたくしがあなたの庵《いほり》の窓の外で、あなたが御祈祷をして入らつしやる最中に、凍え死んでも宜しいのですか。」
「併しこゝへ這入つてどうしようと。」
「わたくしあなたに食ひ付きはいたしません。どうぞお開けなすつて。凍え死ぬかも知れませんよ。」段々物を言つてゐるうちに、女は実際気味が悪くなつたと見えて、しまひは殆ど泣声になつてゐる。
セルギウスは窓から引つ込んだ。そして荊《いばら》の冠《かんむり》を戴いてゐるクリストの肖像を見上げた。「主よ。お助け下さい。主よ。お助け下さい。」かう云つて指で十字を切つて額を土に付けた。それから前房に出る戸を開けた。そこで手探に鉤《かぎ》のある所を捜して鉤をいぢつてゐた。
その時外に足音が聞えた。女が窓から戸口の方へ来たのである。突然女が「あれ」と叫んだ。
セルギウスは女が檐下《のきした》の雨落《あまおち》に足を踏み込んだと云ふ事を知つた。手に握つてゐる戸の鉤を撥ね上げようとする手先が震えた。
「なぜそんなにお手間が取れますの。入れて下すつたつても好いぢやありませんか。わたくしはぐつしより濡れて、凍えさうになつてゐます。あなたが御自分の霊の助かる事ばかり考へて入らつしやるうちに、わたくしはこゝで凍え死ぬかも知れませんよ。」
セルギウスは扉を自分の方へうんと引いて、鉤を撥ね上げた。それから戸を少し開けると、覚えずその戸で女の体を衝いた。「あ。御免なさいよ。」これは昔貴夫人を叮嚀に取扱つた時の呼吸が計らず出たの
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