ゥとも言はれない苦痛です。」かう云つて、ステパンはくるりと背中を向けて帰り掛けた。
 そこへ母親が来掛かつた。「侯爵。どうなされたのです。」かう云ひ掛けたが、ステパンの顔色を見て詞を続けることが出来なかつた。
 ステパンの両方の頬には忽然《こつぜん》血が漲つて来たのである。「あなたは御承知でしたね。御承知でわたくしを世間の目を隠す道具にお使になりましたね。あゝ。若しあなたが貴夫人でなかつたら。」最後の詞を叫ぶやうに言つたのである。それと同時にステパンは節榑立《ふしくれだ》つた拳を握り固めて夫人の顔の前で振つた。そしてくるりと背中を向けて駆け出した。
 ステパンは許嫁《いひなづけ》の女の情夫が、若し帝でなくて、外の誰かであつたら、きつと殺さずには置かなかつただらう。ところがそれが帝である。自分の神のやうに敬つてゐる帝である。
 ステパンは翌日すぐに休暇願と辞表とを一しよに出した。そして病気だと云つて一切の面会を謝絶した。それから間もなくペエテルブルクを立つて荘園に引つ込んだ。
 夏の間中掛かつて、ステパンは身上の事を整理した。夏が過ぎ去つてしまふと、再びペエテルブルクに帰らずに、僧になつて僧院に這入つた。
 マリイの母は此様子を聞いて、余り極端な処置を取らせまいと思つて手紙を遣つた。併しステパンは只自分は神の使命の儘にするので、その使命の重大な為めに、何事も顧る事が出来ないのだと云ふ返事をした。ステパンが此時の心持を領解してゐたのは、同じやうに自信のある、名誉心の強い同胞《どうはう》のワルワラ一人であつた。
 ワルワラはステパンの心を洞察してゐた。ステパンは僧院に這入ると同時に、世間の人が難有く思つてゐる一切の事、自分も奉公をしてゐる間矢張難有く思つてゐた一切の事を抛《なげう》つたのである。ステパンはこれまで自分の羨んでゐる人々を眼下に見下《みくだ》すやうな、高い地位に身を置いたのである。併しステパンが僧になつた動機はこればかりではない。これより外に、ワルワラの理解し得ない動機がある。これは此男が真に宗教上の感情を有してゐたのである。此感情が自信や名誉心と交錯して一しよになつて、此男の動作を左右してゐるのである。崇拝してゐたマリイに騙されて、非常な侮辱を蒙つたと思ふと同時に、ステパンは一時絶望の境遇に陥つた。そして子供の時から心の底に忘れずに持つてゐた信仰に立ち戻つて
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