女は目的を達する上に一層の便宜を得てゐるのである。
 以上の事柄を総括して見るに、己に不安を感ぜしむるには十分の功力がある。最初此自覚が己に憂慮を感ぜしめたことを、己は告白しないわけには行かない。併しそれは暫時にして経過してしまつた。そして程なく己は一種の満足を感じた。バルヂピエロ翁は真に吾を欺かない。己の頭の上に漂つてゐる此脅迫は、己を煩はす程に切迫してゐるものでは無いらしい。只己の未来を不確実にするので、己はそれを望んで、一層力を放つて現在の受用を完全にすることを努めなくてはならぬのである。
 その頃から女の顔と云ふものが、己のためには特別の意味のあるものになつた。それは彼未知の女を捜索するからである。己の現にゐる所に其女が来てゐさうには無い。併し此事件の全体には随分偶然が勢力を逞しうしてゐるのだから、それが愈々活動し続けて、深く己の運命に立ち入り、遂には覿面に其女と己とを相対せしめることになるまいものでも無いのである。
 かう云ふ己の感じは、程なく己の許に届いたバルヂピエロの訃音によつて一層強められた。老人は死に臨んで己にその別荘とそこに蓄へてある一切の物品とを遺贈した。併し己はあの美しい荘園を受け取りに往くことを急がなかつた。なぜと云ふに、丁度その時己は或る地位の高い夫人に対して恋をしてゐて、それに身を委ねて飽くことを知らなかつたからである。夫人の恋愛は己に総ての事を忘れさせた。バルヂピエロが遺贈の事も、久しく故郷を離れてゐると云ふ事も、警戒を与へられてゐる脅迫の事も忘れさせた。現在の恋愛に胸を※[#「宛+りっとう」、第4水準2−3−26、102−下−11]《えぐ》るやうな鋭さがあり、身を殺すやうな劇烈な作用があつて見れば、何も未知の女の己の上に加へようとする匕首《ひしゆ》や毒薬を顧みるには及ばない。
 この不幸な恋をのがれようとして、己は一時旅などをしたこともある。そのうち一年ばかり立つた。或る時己は忽然本国が見たくなつた。中にも見たかつたのはヱネチアである。丁度その時己はアムステルダムにゐた。あそこは幾多の運河が市を貫いて流てゐる所丈恋しいヱネチアに似てゐるが、土地の美しさも天の色も遙かに劣つてゐる。己は博奕の卓に向つて坐して、勝つたり負けたりしてゐるうちに、ふいと卓に覆つてある緑の羅紗の上に散らばつた貨幣の中に、金のチエツキノが一つ交つてゐるのを見附け
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