た。己はそれを拾ひ上げて手まさぐつた。貨幣はヱネチア共和政府の鋳造したもので、羽の生えた獅子の図がある。その時己の目の前に料《はか》らずもヱネチアが浮かんだ。幾条かの運河が縦横に流れ、美しい天が晴れ渡つてゐる。そこには宮殿があり、鐘楼がある。そこにはアルドラミン家の館の淡紅色の大理石の花形がある。そして、ロレンツオよ、君の住んでゐる館の赤み掛かつた壁と水に漬《つか》つた三段の石級《せききふ》とがある。己は忽然として又リワ・スキアヲニに立つてゐる。遊歴を思ひ立つた其日のやうに、立つてゐる己の傍にはバルビさんが立つてゐる。ラグナの澄み切つた空気を穿つて、大きい白い鴎が飛んでゐる。バルビさんは鳩に穀物を投げて遣つてゐる。鳩は皆餌に飽いて、むく/\と太つてゐる。己はその鳩の一羽を手の平に載せてゐるやうな気がした。その鳩は白くて温かで、吭《のど》の下に丁度匕首で刺されたやうな、血痕のやうな、赤い斑を持つてゐる。
二三週の後には己はもうイタリアへ帰る途中にゐた。此旅行にはなんの故障もなかつた。己はバルヂピエロの譲つてくれた別荘に泊つた。丁度その日は天気が好くて、庭には花の香が満ちてゐた。己は黒ん坊に案内させて、別荘の間毎《まごと》の戸を開けさせて見た。併し己を不思議な目に合せて、続いて老人が手紙で注意してくれたやうな運命に陥いれた、例の部屋は見附からなかつた。どの部屋へも窓から日が一ぱいにさし込んでゐる。どの部屋も秩序と平和との姿を見せてゐる。己は記憶のある鏡の広間に食事を出させて食べた。その時己は考へた。この一切の事件は悉《こと/″\》く己の妄想の産み出した架空の話ではあるまいか。あの日に飲んだジエンツアノの葡萄酒に酔つて見た夢ではあるまいかと考へた。バルヂピエロのをぢさんのよこした手紙だつてあの日の笑談《ぜうだん》の続きだと思はれぬこともない。無論をぢさんは死んだには違ひない。併しあの年になれば死ぬのは当然《あたりまへ》である。何も誰かがわざ/\手段を弄してそれを早めたと見なくてはならぬことは無い。己はこんな風に考へて疑問の解決を他日に譲ることにした。
ヱネチアに帰つてから己の最初に尋ねたのは、ロレンツオよ、君だつた。丁度昔のやうに、己は波にゆらいでゐるゴンドラの舟を離れて、水に洗はれて耗《へ》つた、君が館の三段の石級を踏んだ。丁度昔のやうに、己が石級の上から君の名を呼
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